念のため、辞書で調べてみた。やはり「その人が一生をかけてする仕事」と書いてある。ライフワークの定義だ。困難なことでも決意をもって一生をかければ、できる仕事もあるはずだ。少なくとも、目標に向かって一歩でも前に進むことは可能だと思う。
「核兵器のない世界に向け、全力を尽くす」。戦争被爆地・広島出身の岸田文雄前首相が公言してきたライフワークだ。その決意は、一体どこに行ったのだろうか?
野党側も、今年の夏が、広島と長崎への原爆投下や、あの悲惨な戦争から80年目の節目の夏だというのを忘れていないだろうか?
参院選長崎選挙区に応援に来た与野党の有力議員たちの演説を聴いていて、国政の現状に懸念が募ってきた。
長崎選挙区は、自民党旧岸田派で3期目を目指す古賀友一郎氏と、国民民主党の新人で元県議の深堀浩氏が争っている。
▽防衛力の強化
まずは、約9カ月前まで首相だった、岸田氏の演説を紹介したい。
岸田氏は7月1日、長崎県佐世保市での古賀氏の集会に駆けつけた。約20分間の演説では、古賀氏の実績を紹介する一方、野党各党の公約を「ポピュリズム的で一発芸と言っていいほど、先を考えない政策もどんどん出ている。持続可能性をしっかり考えてほしい」と批判した。
外交・安全保障政策についても言及した。首相在任時に行った防衛力の抜本的強化を「やっておいて本当によかった」と自画自賛し、自衛隊員の給与アップや防衛産業の強化に取り組んだと実績を訴えた。
残念ながら、ライフワークであるはずの「核なき世界」や「原爆」といった言葉はなかった。
佐世保市は戦前から西海や南西防衛の要の地だ。海上自衛隊基地や陸上自衛隊駐屯地、米海軍基地があり、市によると周辺も含め約8千人の自衛官が居住している。基地とつながりを深め、共存共生を図ろうとの意見が強い地域だ。
演説会場は長崎原爆の爆心地から約45キロと、かなり離れた場所だ。
自衛隊員やその家族を意識した岸田氏の演説内容は、選挙戦術としては理解できるが、それでも、ライフワークに言及すらしない姿勢には、違和感が拭えなかった。
▽爆心地から3キロ
政権与党に対峙する野党側はどうだろうか?
6月26日夕。JR長崎駅近くの長崎港で開かれた、国民民主党の深堀氏の決起集会。玉木雄一郎代表の約18分間の演説の大半は、ガソリン税の暫定税率廃止や、手取りを増やすという党政策のアピールだった。
演説終了後に、広島と長崎への原爆投下に関するトランプ米大統領の発言について記者団が質問すると、玉木氏は「極めて残念。長崎や広島の皆さんにもっと寄り添った発言を大統領には期待したい」と答えたが、演説では「原爆」や「被爆者」「核なき世界」といった言葉は皆無だった。
演説場所の長崎港は、爆心地から3キロ弱離れているが、長崎市役所が編さんするなどした「長崎原爆戦災誌」によると、近くにあった頑丈な教会は爆風で内部が完全に崩壊し、神父1人が爆死した。港に近い長崎駅でも鉄道職員21人が爆死している。
全国を駆け回っている玉木氏にそれぞれの土地の細かい事情は分からないとは思うが、80年目の夏に長崎で演説をするのであれば、原爆に関して自ら言及してほしかった。
▽ポスト石破
石破茂首相の後継者「ポスト石破」と目される自民党の有力議員たちも、長崎に来ている。
有力候補の1人とされている高市早苗前経済安全保障担当相は6月24日、長崎県諫早市で講演会を開いた。
講演の大半は防衛力や経済力、技術力の強化。故安倍晋三元首相が取り組んだ防衛や経済安全保障の強化に取り組むとして、中国やロシアの脅威から「自主的に、日本国を自立的に守れる防衛力を整備しよう」と、自主防衛の強化を訴えた。
約1時間の講演だったが、原爆や核なき世界の話題はなかった。
諫早市の会場はJR諫早駅から約700メートル。原爆の爆心地からいくつもの山や谷を挟んで約18キロも離れているが、80年前、ここでも強烈な赤紫の閃光が空全体を覆うのが見え、大きな爆発音がとどろいた。
▽生き地獄
諫早市役所が市民から集めた「戦争体験手記」によると、原爆さく裂から数時間後、諫早駅には、全身が焼けただれ体の至る所にガラスの破片が突き刺さった重傷者たちが列車で運ばれてきた。
見るも無残な姿になった人たちがどす黒い血を流しながら、かすれた声を振り絞って「水、水を飲ませて」と叫んでいた様子は、「まさしく生き地獄だった」との証言が寄せられている。
1945年8月9日の惨禍を思いながら、高市氏が訴えた「自主防衛の強化」について考えた。
長崎市の推計では、爆風や熱線などで45年末までに約7万4千人が亡くなり、約7万5千人が重軽傷を負ったと推計されている。今に至るも正確な死者数さえ分からないという、無差別大量殺りくが行われた。
今、世界には約1万2千発の核弾頭がある。一つの核弾頭の威力は80年前の原爆と比べものにならないほど猛烈だ。
高市氏は、自主防衛をどれほど強化すれば、核保有国の脅威から日本を守ることができると考えているのだろうか?
価値観の異なる国ではあるが、日本は、隣国の中国やロシアと紛争にならないように、安定的な関係を築く必要がある。
防衛力の抜本的強化を自らの成果と誇った岸田氏や、自主防衛の強化を掲げる高市氏には、中国やロシアとの相互不信により、かえって衝突リスクが高まる「安全保障のジレンマ」に陥らないために、どんな外交戦略があるのかを話してもらいたかった。
参院選投開票日まであと17日。「核なき世界を目指す」という議論がないまま、参院選が終わってしまうのを危惧している。
参院選が終わると、すぐに、80年目の8月6日と8月9日がやってくるからだ。
このままでは、広島と長崎で原爆の猛火に焼き殺されたり、生き地獄で苦しんだりした何十万人もの人たちに、申し訳が立たない気がしている。(共同通信長崎支局長 下江祐成)
巨大な原子雲や砂塵の塊に覆われた長崎市(原爆炸裂の約15分後に爆心地から約10キロ離れ、山で隔たれた場所で撮影、撮影者・松田弘道氏、長崎原爆資料館所蔵)
自民党の古賀友一郎氏の応援演説をする岸田文雄前首相(2025年7月1日夕、長崎県佐世保市)
長崎港で開かれた国民民主党の深堀浩氏の決起集会で、ガソリンの暫定税率廃止などを訴える玉木雄一郎代表(2025年6月26日夕、長崎市元船町)