評価最高「前橋ブランド」

   私は前橋の農家の生まれといえ、絹やオカイコ、桑となじみ深い。「世界の繭、あるいは絹」について話をしますが、そこには「前橋」が深くかかわっています。
 江戸時代は米本位制の時代。しかし、群馬のように米をあまり作れない地方もある。そこで四木三草(しぼくさんそう)という産業振興の方法が広まった。これは、米以外に茶や桑、楮(こうぞ)や漆などを栽培しようというもので全国で奨励された。群馬では米だけでは生活できないから、桑を植えて養蚕をした。
 幕末、日本の絹の中で一番品質が良く、高値が付いたのは前橋産の糸だった。一八五九(安政六)年、横浜が港として世界に開かれた。そこで諸外国が買い求めたのが絹。当時の絹相場を調べてみたところ、上州で生産された物すべてを含めた前橋産の生糸は最高値で取引されていた。ロンドンやパリの新聞にも「前橋ブランド」の絹価格が載った。
 前橋の生糸を横浜で独占的に扱ったのが、嬬恋村出身の中居屋重兵衛だった。中居屋は間口が三十間(約五十四メートル)という横浜で一番大きな店を持ち、前橋町という町名もできたほどだった。しかし、中居屋は桜田門外の変の後、店が火事になり、没落した。
 群馬の糸“前橋”はブランドとなった。絹織物で有名な京都の西陣は、外から糸を買ってきて織物を織った。一方で、養蚕や製糸で有名な信州は、絹織物では「桐生」のようなブランド名はない。しかし、群馬は養蚕もやるし、製糸も織物も有名。三部門で日本のトップに立った。
 当時、欧州には近代的な文物が何でもあった。蒸気船も紡績機も、日本は何かを売って買わなければならない。その資金となったのが生糸だった。だから日本の文明化=近代化は、群馬の生糸によって支えられていたと言える。
 吉田松陰の義弟にあたる初代群馬県令、楫取素彦は、勧業知事と言われた。明治維新を成し遂げた功労者でもある松蔭の義弟を、明治政府が群馬に派遣したのには目的があったのではないか。明治国家の富国強兵、文明開化のその経済的な基盤として、群馬の生糸を始めから前提にした上での派遣であったと思う。
 今ではトヨタなどが日本の経済を支えているが、明治の近代化を支えたのは群馬の絹だった。私は今後、群馬の生糸がどのように世界に広まっていったのかを再認識し、それが日本の経済をどれほど支えていたのかなどについて研究を続けたい。その中で、群馬や前橋の地方史というものが、日本史を変えていった様子も分かってくるのではないかと考えている。


●カラー口絵には、写真家・田中弘子さんの「繭の輝き」(林忠彦賞受賞作品)から9点を掲載。
●詩人・房内はるみさんによる、繭の美しさや絹の思いが凝縮された詩「座繰りをまわす女」掲載
・4/6版234ページ・口絵カラー12ページ
・定価:1.260円
第1巻「繭の記憶」