近代日本を代表する実業家として新1万円札の顔に採用された渋沢栄一は、群馬県の官営富岡製糸場の設置を推進するなど「製糸場の生みの親」として知られる。生誕地の埼玉県深谷市血洗島は群馬県境にほど近く、親戚のいた伊勢崎市境島村の養蚕業の発展にも貢献。群馬県とゆかりの深い渋沢が脚光を浴びた9日、関係者は喜びの声を上げた。
◎世界遺産 伝道師や旧家当主が喜び
「伝道師が新1万円札を見せ、『製糸場を設立したのはこの人です』と説明する姿が目に浮かぶ。世界遺産登録5周年だし、うれしい」。富岡製糸場世界遺産伝道師協会長の近藤功さん(78)は声を弾ませた。
渋沢栄一のいとこが嫁いだ6代目田島武平の家の現当主、田島信孝さん(71)=伊勢崎市境島村=も「うれしいニュース」と歓迎した。渋沢家とは県こそ違うもののわずか2キロほどの距離で、縁も深い。武平は渋沢の依頼を受け皇居で養蚕を指導した。また渋沢は、島村の蚕種輸出のための島村勧業会社設立時に助言をし、初代社長に武平が就任した。
武平の没後も交流は続いた。渋沢の晩年の1931年、滋養のために田島さんの祖父と父が利根川でコイを捕まえ、生きたまま東京・飛鳥山の私邸に届けた逸話も残る。田島さんは「父は渋沢さん、と親しみを込めていた。(1万円札の肖像で)多くの人に評価されるだろう」と期待した。
みなかみ町の塩原太助記念館は、渋沢栄一が
揮毫した書「塩原太助翁之碑」を保管する。太助の生涯に共感した渋沢が記念碑のために書いた、長さ約5メートル、幅約2メートルの大作だ。永井介嗣館長(71)は「渋沢の影響で太助が注目されるのはうれしい」と話す。今後、書の一般公開を検討する。
渋沢の子孫で、コモンズ投信会長の渋沢健氏(58)は「『道徳と経済が合致すべきだ』という渋沢の考えは現代でも重要視される思想に通じる。お札を通じて国内外に知ってもらえるのは意義がある」と語った。
渋沢が初代会頭を務めた東京商工会議所の三村明夫会頭(前橋市出身)は「私益と公益を高い次元で両立させる考え方は、企業経営者が守るべき一つのモデルだ」と述べた。
深谷市の小島進市長は同市の渋沢栄一記念館で会見し、「市民の誇り。心からうれしい」と述べた。会場に駆け付けた伊勢崎、深谷両市民ら約200人と万歳をして祝った。
◎高崎城乗っ取り議論 群馬とも生涯にわたり関係
渋沢栄一は1840(天保11)年に養蚕や、藍玉を製造販売する裕福な農家に生まれた。
幼少期は後の初代富岡製糸場所長で、いとこの尾高惇忠から論語などを学ぶ。尾高と渋沢は、高崎城乗っ取りを議論したこともあったが、周囲に説得されて中止したとされる。
その後、江戸幕府最後の将軍となる徳川慶喜に仕えた。慶喜の弟昭武に従い、フランスのパリ万博使節団に随行してヨーロッパ文化を吸収した。
帰国後は明治政府に仕官し、富岡製糸場設立を積極的に主張する。養蚕に詳しかったこともあり、1870(明治3)年には製糸場建設の設置主任となった。
1873年に明治政府を退官後は、日本の近代産業育成をリード。第一国立銀行(現みずほ銀行)など500社以上の企業の設立や経営に関わった。
伊勢崎市境島村の住民が蚕種会社の島村勧業会社を設立する際には、渋沢が定款を考案するなど積極的に支援している。
晩年の1925(大正14)年には、塩原太助記念碑建立のため書を揮毫している。渋沢は頻繁に渋川市の伊香保温泉に滞在したことでも知られている。
◎「私も上州人に似る」…大正2年 上毛新聞に談話
私も大いに上州人に似たところがある―。渋沢栄一は1913(大正2)年、上毛新聞が8000号を迎えたのを記念して本紙に談話を寄せた。「上毛に対する懐旧と希望」と題し、同年9月27~29日の3回にわたり掲載され、上州への思いや期待をつづっている。
渋沢が生まれ育った武州・血洗島村(埼玉県深谷市)は群馬県境にほど近い。幼少期に利根川や榛名山、赤城山などから受けた影響は大きく、上州に親戚も多かったことから「上毛という名は永遠に忘れることができない」とした。
上州人の気質の象徴として国定忠治ら
侠客を挙げ、「上州人の特徴である義に勇む気性はほめたたえるべきだが、その弊害は慎まなければならない」と評価。武州は上州の気風を受けた地であるとして、「私も大いに上州人に似たところがあり、故郷の人々と同様の懐かしさがある」とも語っている。
若者に向けて「上州気風の熱血を、修養というバロメーターによって加減し、大正の日本人士たる本分を進展させることを望む」と言葉を贈った。
※詳しくは
「上毛新聞」朝刊、
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