上毛新聞社「21世紀のシルクカントリー群馬」キャンペーン

シルクカントリー群馬
Silkcountry Gunma21
シルクカントリー群馬イメージ
桑くれを行う子供たち
畳敷きの会場でパネリストの議論に耳を傾ける来場者

シルクカントリー双書発刊記念シンポジウム@ 上州人生糸商の足跡 往時の迎賓館前橋・臨江閣で
掲載日・2009/07/28

横浜開港で生糸輸出が始まって150年―。シルクカントリー双書発刊・記念イベント「横浜開港と上州・絹の先人たち」(上毛新聞社主催)が19日、前橋・臨江閣で開かれた。生糸商として横浜で活躍した上州人の才覚にスポットを当て、横浜開港資料館主任調査研究員の西川武臣さんが講演。会場となった臨江閣は明治期、生糸商らが資金を出して前橋の迎賓館として建設したもの。シンポジウムでは、先人の残した“遺産”に思いをはせ、糸のまち前橋と横浜の深いつながりをあらためて確かめた。


 ―前橋の生糸商や製糸業者が大きな活躍ができたのはなぜか。
 
石原 横浜開港前まで前橋はさびれていたが、復興したのが生糸関係者だった。よい糸が取れる産地で、元気を取り戻そうという気構えを持っていたと思う。日本で初めて器械製糸工場を造ったのは前橋の士族。やがて商人や農家も結社となり、世界最高品質の糸を生産し、前橋の経済や政治の力強さにつながった。
 
 ―前橋を代表する生糸商に初代前橋市長の下村善太郎がいる。
 石原 もとは質の良くないのし糸取引で蓄財し、開港後は嬬恋村出身の中居屋重兵衛たちの手を通して生糸を売り、莫大(ばくだい)な利益を上げた。それを市の建設に役立て、地域のために尽くした。前橋にとってなくてはならない存在だ。
 
 手島 いくらほめてもほめすぎではない。下村の死後、当時の首相、原敬が前橋を訪れた際、下村の銅像に深々と頭を下げたという。「平民宰相」として国民に人気のあった首相が感動するくらい、下村は財力を公共のために使ったと言える。
 
 ―初代群馬県令、楫取素彦も本県の繁栄の大きな力となった。
 石原 生糸生産が盛んになるよう産業面、文化面で大変な努力をした。当時、法律の不備で横浜での生糸取引がうまくいかない中で、アメリカへ直輸出を推し進めたのは楫取だった。
 
 ―ほかに特筆すべき生糸商はいるか。
 
 手島 群馬と埼玉の商人は一体となって活躍している。児玉郡で生まれ、鬼石で呉服商をしていた中里忠兵衛は開港後に横浜に進出し、後に銀行を興した左右田(そうだ)金作らが続いた。彼らは鬼石の奥にある不動堂に梵ぼん鐘しょうを寄付しており、この“上武連合”に注目していきたい。
 
 ―開港前の横浜の様子はどうだったのか。
 
 西川 ペリーが来航した時、横浜には100戸程度しかなく、人口五、六百人の寒村だった。ペリーが幕府と交渉する場所として横浜が選ばれ、米英などと条約締結後、現在の横浜市中区が外国人居留地となった。何もない土地にまちを建設するので、治水工事の専門家が必要。伊勢崎などの業者も工事に携わった。
 
 ―横浜のまちづくりの基盤は生糸商がつくったのか。
 
 西川 当初はまちの運営が困難だったため、生糸貿易商が売上金の一部を行政に差し出し、土木工事費や役人の給料などを負担した。その中でも上州商人は極めて重要な位置を占めていた。
 
 ―特に活躍した生糸商に、埼玉県神川町出身の原善三郎、高崎出身の茂木惣兵衛がいる。
 
 西川 上州の糸をどう押さえるかが貿易商にとって大きな意味があった。原、茂木は地縁、血縁を利用して上州糸を集めており、大成功できたのは出身地と深い関係がある。2人は政治の世界でも発言力を増していき、横浜の鉄道や港湾施設などインフラ整備に大きな役割を果たした。
 
 ―群馬と横浜とのつながりでは、本県に支店を持つ横浜銀行がある。
 
 手島 横浜銀行のルーツは第二国立銀行と第七十四国立銀行で、いずれも生糸貿易のために設立された。第二は原、茂木、大間々出身の吉田幸兵衛らが設立し、七十四は薮塚出身の伏島近蔵が初代頭取になった。関東地方に店舗があるのは東京、神奈川と群馬だけ。また、七十四銀行が破綻(はたん)した後、再建したのは赤堀出身の斎藤虎五郎。合併を経て設立された群馬大同銀行の頭取も務め、横浜と群馬の金融を立て直した。
 
 ―絹の歴史がある土地は、創作にどんな影響があるか。
 
 今井 35年前の3月、神戸から前橋にやってきた。桑畑が周りにたくさんあって、蚕が桑を食べる音に感動した。糸のまちで生活しなければ、種から蚕になって繭を作り、糸になるまでの過程も知らなかったと思う。それまではできあがった製品にしか関心がなかったが、素材に対する認識が深くなり、こだわりが強くなった。素材が良ければ同じ染料を使っても仕上がりが全然違う。この経験はもちろん制作に生かされている。
 
 ―横浜へ絹が運ばれた道は。
 
 石原 上州は絹のルートがしっかりしていて、街道と利根川、広瀬川などの河岸をうまく利用して比較的短期間で運べた。1884(明治17)年からは高崎線、両毛線、信越線が次々と開通し、大量の生糸運搬に役立った。
 
 ―生糸輸出とは逆に、横浜からは文化や情報が上州にもたらされた。
 石原 洋食や洋風建築は代表的。富岡製糸場はいい例で、和洋をうまく合わせて日本にマッチした建物を造った。三権分立や人権思想、キリスト教といった精神的なものも入り、群馬ではいち早く廃娼(はいしょう)運動が起きた。
 
 ―絹の先人たちの遺産をどのように生かし、後世に伝えるか。
 
 今井 (富岡製糸場の)繭倉庫は歴史的価値があるので、展示スペースなどにぜひ活用したい。また、前橋には利根川に架かる橋が9本あるが、川をじっくり眺められる橋がほとんどない。糸のまちを印象づける工夫をしてみてはどうか
 
 手島 福沢諭吉の造語に「士魂商才」がある。商人であっても信用が大事という意味だが、上州の生糸商はまさに士魂商才だった。また、製糸業やキリスト教において、さまざまな価値観の人が一つのことを成し遂げる寛容さがあった。こうした精神遺産を発展、継承していくことが大事だ。
 
◎会場の声
 
 シンポジウム会場には約120人がつめかけ、議論に耳を傾けた。開港当時の絹の歴史に触れ、新たな発見をした人もいた。
 
 井坂勝男さん(67)=高崎市棟高町 横浜市の野沢屋が高崎出身の茂木惣兵衛が創業したことを知り、不思議な縁を感じた。また、中居屋重兵衛のすごさをあらためて知った。もし、明治期まで生きていれば歴史は変わっていたかもしれない。
 
 坂庭知恵子さん(66)=前橋市総社町総社 地元のことをもっと知りたいと思い参加した。学生時代の思い出の地で、横浜に親しみを感じていた。その横浜と群馬が絹を通じて関係していたことに驚いた。孫たちにも伝えていきたい。
 
 鈴木喜代さん(74)=渋川市渋川 開港後の横浜で多くの群馬県人が活躍していたことを初めて知り、驚いた。群馬が日本をリードしたということをみんなが知れば、もっと群馬に自信や誇りが持てると思う。
 
◎パネリスト
 
共愛学園前橋国際大名誉教授 石原征明さん
 
横浜開港資料館主任調査研究員 西川武臣さん
 
県立歴史博物館主幹 手島仁さん
 
染色美術家 今井ひさ子さん
 
コーディネーター 上毛新聞社論説副委員長 藤井浩
 

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