上毛新聞社「21世紀のシルクカントリー群馬」キャンペーン
富岡製糸場を視察する清水さん(左)=2003年8月
清水慶一さんを悼む 松浦利隆 製糸場の世界遺産登録に尽力 「最高のものを見た」 規模、歴史的価値を評価
掲載日2011/02/26
「富岡製糸場を世界遺産に」と言い出した人であった。言ったばかりでなく、調査に通い、論文を書き、講演を重ね、半信半疑のわれわれを熱っぽく説いて道筋を切り開いた人であった。しかも、この世界遺産の発想はいっときの思いつきではなかった。
清水慶一先生は日本近代建築史の研究者であり「東京建築探偵団」の活躍で1980年代には有名人であった。また、当時まだ用語もない「産業遺産」に注目、古い工場や鉱山、造船所や灯台の調査で全国を飛び歩いていた。
その先生が全国に先駆けた県近代化遺産総合調査の指導にやってきたのは1990年の春であった。以来2年間はほぼ毎週来県、県内隅々まで精力的に調査した。旧碓氷社本館、旧陸軍岩鼻火薬製造所、旧新町紡績所すべてが初の本格的調査だった。
富岡製糸場はお気に入りで、鉄水槽の初の実測を自らの手で行い実に満足そうだった。調査の報告書をまとめると「群馬の近代化遺産は、その密度と規模、歴史的価値で一番だ」と語り、「もう最高のものを見ちゃったから」と後に続いた全国各地の近代化遺産調査の依頼を断った。
その後、テネシー大学の客員教授として渡米、海外の産業資産の知見と多くの友人を土産に戻った。帰国後は日本の産業遺産の世界的位置づけ、その保存と再利用にも研究領域を広げ、勤務先の国立科学博物館内に産業技術史資料情報センターを立ち上げた。
しかし、いつも群馬のことが脳裏から離れないようで、会うたびに「製糸場はどう、新町は大丈夫、何とか残したいなあ」と口癖のように語った。そんな清水先生が21世紀になったころにたどりついたのが「世界遺産」であった。
決心すると動きは速かった。群馬通いが復活し、ここ数年は調査、委員会、講演、撮影、頼まれればどこにでも駆けつけた。この姿勢は病魔に侵されても変わらず、先月も家族の心配を振り切り、病院で体調を整えた朝には群馬に向かったという。
清水先生の夢から始まった世界遺産登録があと一歩の現実に迫った時の急逝、今はまさに言葉もでない。
(県世界遺産推進課長)
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県世界遺産学術委員会副委員長で、国立科学博物館産業技術史資料情報センター参事の清水慶一さんは20日逝去。60歳だった。
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