上毛新聞社「21世紀のシルクカントリー群馬」キャンペーン

シルクカントリー群馬
Silkcountry Gunma21
シルクカントリー群馬イメージ
県産繭で干支作り 高崎・新町
県産繭で干支作り 高崎・新町

富岡製糸場を支えた工女たち 心束ねた儒教精神 「近代日本作る」 10代の娘に気概
掲載日2010/12/11

 明治政府が1872(明治5)年に設立した旧官営富岡製糸場は当初、全国から集められた旧士族の娘たちが生産を支えたことでも知られる。彼女たちはどのような心意気で糸取りと向き合い、その後の製糸場に引き継がれたのか。11月に東京・明治神宮で「昭憲皇太后と富岡製糸場工女の精神」と題して講演した高崎経済大名誉教授の山崎益吉さん(68)=甘楽町天引=に聞いた。

 ―初期に働いていた工女に士族出身者が多いのはなぜか。
  政府が各地域に命令して工女を派遣させた。とはいっても最初は「生き血を吸われる」などとうわさが立ってだれも応じないので、士族が率先して娘や妻を派遣した。松代藩士の家に生まれ「富岡日記」を残した和田英もそう。「国のために励みなさい」と送り出されたから、私たちが近代日本を作っていくという意気込みで糸を取った。10代の若い娘たちにそんな気概があったのは素晴らしい。
 ―講演では、開設翌年の1873年に明治天皇の皇后、昭憲皇太后が製糸場を視察した時の様子に触れている。
 わずか1日の出来事だったが、その後も長きにわたって製糸場に影響を与えている。皇太后がその際に「いと車」で始まる和歌を詠んでいるが、それは明治後期から昭和初期に製糸場を運営した原合名会社の社歌になっている。官営時代の精神を貫いていた点で、富岡製糸場は民営化された後もほかの製糸工場とはかなり違っていた。
 ―工女たちの思想のルーツはどこにあると考えるか。
 製糸場の基礎を築いた渋沢栄一、所長を務めた尾高惇忠は朱子学、つまり儒教精神にあふれていた。また、和田英が出た松代は朱子学者の佐久間象しょうざん山を輩出している。こうした思想が群馬で展開され、工女にも伝わったのではないか。今でこそ儒教は否定的な側面もあるが、製糸場では工女たちの心を束ね、うまく機能したと言える。
 ―過去の講演や著書では、幕末の思想家、横井小しょうなん楠の影響も指摘している。
 横井は1860(万延元)年の「国是三論」で富国、強兵、士道を唱え、早くから生糸貿易の重要性を訴えていた。しかも西洋の技術には士道(徳)がないとして、東洋の心徳をもって取り入れるべきだと。横井は1869年に暗殺されてしまうので製糸場の完成は見届けられなかったが、工女の聞き書きなどを見るとその影響が強く見られる。
 ―横井の考え方は現代にも通ずるものがある。
 心徳を欠いて合理主義を突き進んだ今、世界中でおかしな事が起きている。そんな時代に製糸場が見直され、世界遺産にしようという動きが出るのは必然だ。製糸場が建築や歴史的な価値だけでなく、素晴らしい精神を示す建物として強調してもいい。
 ―自身も2007年に築120年の養蚕家屋を改造し、「日本文化研究所」と名付けた。
 世界遺産運動の力になればと思って改造した。自分の身近にある遺産を守る活動も大事だ。本登録を目指すなら、製糸場と周辺地域に協調性を持たせ、ともに歩んできた歴史を示せるよう整備すべきだと思う。
 やまざき・ますきち 1942年甘楽町生まれ。高崎経済大卒、青山学院大大学院修了。元高崎経済大学長。専門は日本経済思想史。著書に「製糸工女のエートス―日本近代化を担った女性たち」など。

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------