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◎里見氏始祖の地預かる 「南総里見八犬伝」の題材は享徳の乱(1454年)≪戦国前期≫であると前回書きました。八犬伝の本家・千葉県館山市など、意外と知られていないためか、少し反響がありました。今回も関連して、安房の里見氏の内紛を中心に触れてみたいと思います。 慢性的な飢餓状態に置かれた人々は“生き残るために”合戦に参加し、敵地において人や物資の略奪、殺りくをくり返しました。一方で、長期にわたる戦乱の終結を希求し“平和をめざして”合戦に参加していました。そのため、人々の大移動をうながし、敗戦になると、その土地に縁故ができて、上州に土着帰農したといいます。 関東戦国史は上杉の「康申の越山」から、武田、北条、房総の里見など、最後は北条氏の滅亡、上野長野氏の箕輪落城で武田信玄の西上野が確立し、以後、豊臣政権の全国統一まで30年間続くことになります。 武田勢に滅ぼされた室田長野氏の家臣石井氏と里見氏について少し触れます。 長野氏は、関東管領上野国守護、山内上杉氏の下で台頭し、業尚(なりなお)が室田鷹留城(高崎市下室田町)を築きました。軍師、鷹留城主でもあった戦国武将・石井信房(左京大夫讃岐守)は幼名を文悟丸、いみなを義樹(里見義樹)といいました。里見氏始祖義俊より16代目で房州稲村城主(館山市)の里見義堯(里見氏全盛期の大名)の次男で、母は箕輪城主・長野信業の娘。信業の子、業政の養子となり(長野信房)、鷹留城主になりました。その後、業盛が生まれたため、信房は石井城(前橋市富士見町石井)を任され、石井信房を名乗りましたが、永禄6=1563年に鷹留城で討ち死にしました。以上は秋間系図(安中市秋間、石井泰太郎家所蔵)によります。 では、なぜ石井信房は始祖の地西上野国を任されるようになったのか。それは、里見氏の内紛、安房の天文の乱(天文2=1533年)に巻き込まれないためではないかと思われます。この乱は、里見義豊が叔父実堯と配下の正木通網を殺害したことから勃発≪前期里見氏≫。父を殺された里見義堯が義豊を討つ≪後期里見氏≫という里見氏内の全面抗争です。 子孫は、秋間系図所蔵の石井家や高崎市中室田町の石井家(旧榛名町の町長を3代務める)です。関連して「長野氏家臣録」に富沢伊八、十郎衛の名もあります。富沢氏は『群馬県姓氏家系大辞典』(角川書店)によると、新田一族里見系で、始祖義俊とともに里見に移り住んで里見氏の武将として仕え、新田荘富沢(太田市富沢町)を領して富沢を名乗りました。このように、地域の「戦国武将」を掘り起こし、歴史的資産として研究発信することは、地域の一体感を醸成するためにも大切だと思っています。 (上毛新聞 2012年6月10日掲載) |