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◎頼朝の側近だった義成 私のテーマのひとつである「カルチャー」は、英語では文化、教養の意味ですが、原語のラテン語では、耕す、掘り起こす等々の意味だそうです。 地域を掘り起こす意味合いを込めて、地域の歴史的資産を生かすためにも、「里見の郷さと」を地域ブランドにするためにも、里見氏の歴史を少し振り返ってみたいと思います。 一般的に言って、里見氏のイメージは、上杉、武田、北条の三つどもえの戦乱の時代の房総里見氏であり、滝沢馬琴によって書かれた伝奇ロマン『南総里見八犬伝』のモデルの里見氏でしょう。 上毛かるたにある「歴史に名高い新田義貞」の鎌倉倒幕の錦絵(新田義貞投剣図)で、中央の義貞の右脇に座って、大きな弓を右手で持っている人物が6代里見五郎義胤(よしたね)です。これこそが里見氏のイメージではないでしょうか(詳細は“里見の郷”をパソコン等で検索して、里見の郷推進実行委員会の公式ホームページのトップに錦絵の画像があります。その他の報告もあり)。 里見氏の歴史は、始祖の初代義俊から20代忠義まで、平安時代末期から江戸時代初期まで、約500年間続きました。 今年のNHK大河ドラマ「平清盛」の源平争乱は、西国の遠い舞台の戦乱に見えるかもしれませんが、源義国や新田義重、そして、2代の里見義成が同じ時代に登場して、近い存在でもあります。 今回は、特に「義成」の活躍について、少し触れてみたいと思います。 平安時代末期、源義国という京の武者が東国に下りました(1150=久安6年)。その義国の子、源義重(新田義重)こそが、初代里見氏の父なのです。 兄弟は、長子の始祖義俊や山名氏の始祖義範(山名八幡宮で有名な現高崎市山名町)、新田氏を継ぐ義兼、後で徳川家康が自分のルーツとした(世良田)義季がいます。 歴史書『吾妻鏡』にたびたび登場する新田義重は、寺尾城(現高崎市寺尾町)に立てこもり、自立を図ろうとしたため、源頼朝に鎌倉に入ることは許されませんでした。 しかし、義重の孫にあたる里見義成は、京で平家に仕えていましたが、頼朝を討つと称して東国に下り、鎌倉の頼朝のもとへはせ参じました。このように、義成は頼朝の側近として、非常に信頼が厚かったようです。同歴史書には、義成の死亡記事に、頼朝の寵臣(ちょうしん)(主君に特別気に入られた家臣)であり、義成の亡くなったことを惜しまない人はいないと記してあります。 今年の大河ドラマは、より興味を持って見ることができます。里見氏が同じ時代に活躍した武士であることがわかります。 (上毛新聞 2012年2月23日掲載) |