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◎学問の裏付けある教育 前にもこの欄に書いたことがあるが、大学というものはやっかいである。私も大学の構成メンバーのひとりとしてその所以(ゆえん)を身をもって知っている。なぜならば、大学には金がかかる。金だけでなくて手間もかかる。そして金と手間だけでもだめである。大学人の誠意が不可欠である、ということであった。 ただ「誠意」といっても、たとえば交通事故の加害者に対して「誠意を見せよ」と言うこととは質が違う。これは、ある意味で信仰のようなものかもしれない。本質的に学問自体や学問に携わる人々に対する敬意が底流になければならない。金を積んで何かを盛り込むように見せても、そこに大学を担う人間の誠意が存在しなければ、大学は空虚な伽がらん藍堂になってしまうのだ。では、その学問とは何か。もしかすると、大学は学生が世間に出てゆくための準備の場にすぎないのだから、とにかく就職をすることがまず優先されるべきだ、という誤解があるのかもしれない。しかしこれは大いなる誤解である。何を甘いことを、という向きもあろうが、まあ考えてみればよい。およそ学問とは、己のためにするものである、と昔の唐土の賢者は言った。己のためにするとは、何か。各個人の倫理性を高め、真に学問に裏付けられた自立した個人を造ることではないか。とにかく名の通った企業に就職することは、このことあってのことであろう。前後を間違えてはいけない。ただこうは言うものの、実際はなかなか難しいことではある。 近年大学には、真の社会人たるべき人材を教育・育成せよ、という要求が寄せられている。具体的には、卒業してすぐに企業の現場での即戦力になるような人材が求められ、そのための教育が要請されている。初年次教育に始まり、語学力などに及び、「学士力」という用語さえ造られている。これらを否定すべき要因はない。しかし、学問に裏付けられた本質的な大学教育あってこそ望むべき就職が実現される。けっしてその逆ではない。 振り返ってみてわが大学はどうだろうか。忸怩(じくじ)たる思いを禁じ得ない。本来の意味で学問が大事にされているだろうか。大学に籍を置く研究者がその責務を真に負っているだろうか。本質的なものを措(お)いて目先の就職だけに目を奪われてはいないか。そういえば、古典に格好の言葉があった。曰いわく「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる」(「マタイによる福音書」6―33、新共同訳による)と。 (上毛新聞 2010年11月12日掲載) |