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◎画業の遮断招いた失踪 館林市出身の日本画家・藤牧義夫は24歳の時失踪(しっそう)し、そのまま現在に至っています。彼の失踪のことだけを取り上げ、あれこれ騒ぐつもりはありません。 しかし、私は本欄において美術鑑賞者の立場から藤牧の足跡をたどりつつ、いくつかの問題点に注目してきました。その視点に立てば、彼自身の画業を遮断し、謎の多い画家と言われる所ゆえ以んが、彼の失踪にあるという事実もまた無視できません。そこで、藤牧の失踪に関係あると考えられることを一つ二つ紹介し、本稿の最終回と致します。 (1)藤牧は失踪する直前に、自分の作品や持ち物を、親族や、版画同人の一部の人に配り歩いています。「形見分け(?)」のつもりだったのでしょう。失踪は明らかに計画的でした。藤牧は、恐らく病魔に侵され、苦しみ、あるいは怯(おび)え、絶望感で心の目が見えなくなっていたのかも知れません。で、その形見分けを注意して見ると、「親族」には≪絵巻隅田川≫など日本画関連の作品などを、「版画同人」には版画関連をと、明確に区別して届けています。藤牧は、版画仲間には「絵巻」のことなど全く話していませんでした。彼は絵巻をやっていることが仲間に知れると、「何を描いてるんだ…」とか、版画と絵巻の「両道か?」などと要らざる疑念の持たれるのを嫌ったのでしょう。かなり繊細な気を使っていたようです。この藤牧の神経は、彼の画業をたどる時、見逃せません。 (2)藤牧の甥(おい)の一人に、大塚亨(とおる)という人がいました。1935年当時15歳で藤牧の様子をかなりはっきり覚えていて貴重な証言を残しています。例えば、藤牧は(1)「商業図案の仕事を嫌がっていた」(2)「鼻の手術をして、うちでゴロゴロと休んでいた」という二つの話は、藤牧が図案の仕事で納期遅延を起こし、錯乱状態になり勤めていた図案工房も辞め、体調を崩し始め、不安の時期を迎えるころの状況を裏付けています。そして(3)「大島には2回行った。2回ともうちから出かけて行った」。この話も重要です。彼の三原山投身自殺説の有力な根拠でもあります。藤牧はよほど大島が好きだったようで、版画≪島のぢいさん≫はこの時の作でしょう。また(4)「絵の宿題を手伝ってもらったこともあるけど、年中絵ばっかりで、子供にとっては面白味のない叔父だった」などと遠慮のない率直な話は、藤牧の姿をそっくり言い当てていて驚くほどです。 私は、以上の証言などをいつも反すうしながら、藤牧の姿を想像しています。≪絵巻隅田川・第一巻~三巻≫は東京都現代美術館。≪同・第四巻≫は館林市資料館。≪給油所≫も館林市資料館。≪赤陽≫は東京国立近代美術館が、それぞれ収蔵。機会があれば鑑賞をおすすめします。 (上毛新聞 2010年11月5日掲載) |