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NPO法人Jコミュニケーション代表理事  高橋 清乃(前橋市駒形町)



【略歴】前橋女高卒。日本語講師。2000年にニュージーランドの小学校などで指導。03年に伊勢崎市に日本語教室開設。県などの委託で市内外で日本語を教える。



日本語教師になるまで



◎英語学習がきっかけに




 縁あって日本語教師になったきっかけは、1986年1月、前橋市の書店で開かれた「親子とことば」という講演会でした。2人の子供が学校に上がり、暇な時間ができた私に興味をもてるテーマでした。講師は『クシュラの奇跡』という本を翻訳した百々佑利子さんで、知的障害を持って生まれた子供を、本の読み聞かせをして育てた経過を書いたものでした。

 素晴らしい本でしたし、読み聞かせの素晴らしさもはっきりと確認することができましたが、私がそれより興味を持ったのは、「英語の手遊び」でした。主催者であるラボ国際交流センター会員の大学生が英語の歌を歌いながら手遊びを教えてくれました。彼女がかわいくて教え方が上手なこともありましたが、心の底から「これをやりたい」と思ったのです。

 日本の「アルプス一万尺」のようなものです。これをやりたくて、ラボチューター研修に通いました。この6カ月は英語の歌を覚え英語でのお話を覚えるという、主婦だった私にとって、「過酷」な勉強でしたが、楽しい日々でもありました。でも高卒の私の英語力では、また、もうすでに15年もたっていましたので、英語を教えることに自信を持てるわけがありません。そこで英語という名のつくサークル・LL教室に毎日のように通いました。覚えるのはとても大変でした。が、なぜか「嫌だ」とか「苦しい」とか思ったことはありませんでした。

 その後、88年に開校した共愛学園女子短期大学(現共愛学園前橋国際大学)の聴講生となり、英語の科目をすべてとりました。当時同大学にいたカナダ人のトーマス先生には大変励まされ、親切にしてもらいました。先生の故郷にも聖歌隊として連れて行ってもらいましたが、残念ながらカナダに帰った翌年には亡くなってしまいました。

 トーマス先生に褒められたおかげで放送大学に入学することにしました。90年に入学してから10年、発達と教育を専攻し、もちろん英語と名のつく科目はすべてとり、卒業しました。また、何か英語に役に立つのではと思い、日本語に関する科目もいくつかとり、実際に92年から1年半くらい伊勢崎で日本語を教える経験もしました。

 子どものためと言いながら自分が一番楽しみながら、英語教育活動を続け、足かけ15年。ふと立ち止まると、娘2人はその活動を卒業し、私1人、他の子供たちと楽しんでいました。何年やっても発音が上手にならず、“カタカナ英語”しか話せない自分がいやになったころ、NHKラジオ英会話のテキストに出ていた「ボランティア アシスタント日本語教師募集」の記事が目に留まりました。これが日本語教師へのきっかけとなりました。







(上毛新聞 2010年9月8日掲載)