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◎兄弟で幕末に活躍 上州には、さまざまな分野で活躍した人物がいました。その一人が刀工藤枝英義(ふじえだてるよし)(1823~1876)。作例が比較的残っています。彼は各流派を研究、門弟を多数そだて、著書に『刀剣秘伝書』があります。 英義の家は代々前橋藩(当時は川越藩)の藩士であり、おかかえ鍛冶(かじ)でした。父は鈴木英一(てるかず)。やはり刀工で、なかなかの勉強家でした。若いころ、高崎藩の儒者江積積善に学び、学才を見込まれて、師の娘を妻に迎えたほどだったといわれています。 英一はのちに、藩命で、絶家していた藤枝家を再興し、苗字とします。 英義はその長男として文政6(1823)年に生まれ、父のもとで修業を積み、江戸で評判の高かった、細川正義(まさよし)に入門しました。 師の正義は、鎌倉時代の備前国(岡山県)の刀工の作風『丁子(ちょうじ)』という、華麗な刃文(はもん)を再現した名工でした。 修業が終わり、彼は父と師の1字をもらって英義と名乗りました。当時は川越藩江戸屋敷で作刀し『於東武(とうぶにおいて)』(東武蔵(ひがしむさし)の略=江戸のこと)と銘切りしたものを見ることがあります。 英義には弟があり、名前は鈴藤(すずふじ)勇次郎。旧姓の鈴木、藤枝からとった苗字です。のち、江川太郎左衛門に入門。その推挙で幕臣になった逸材です。やがて、彼は遣米使節団の一員として咸臨丸(かんりんまる)に乗り組みました。4月18日放映NHK大河ドラマ『龍馬伝・勝麟太郎』の最後に出た『咸臨丸難航図』は彼の作です。 英義は技(わざ)に優れていましたし、努力を重ねて、師の備前伝のほか、さまざまな流派の作風に挑戦しました。現存の作品は力作が多く、県重要文化財指定のものが4振りあります。 一方、彼は大勢の門弟を育てました。独立する際は、「英てる」の1字を銘にきることを許しましたから、いまでも、「英(てる)□」と銘のある門弟の作品を、時々見かけます。 慶応年間、藩が川越から前橋へ移ります。英義は江戸屋敷にとどまっていたようで『於東武 上毛前橋臣藤枝英義』銘の刀があります。このころ、新政府軍に抵抗した幕臣たちは、彰義隊を結成します。弟勇次郎は病気のため参陣できず、無念だとして、1人娘を兄英義に託して自決。まもなく廃藩置県となり、英義は在所の玉村へ移りました。 ここでの最終作は、明治6年銘の小太刀(こだち)で、玉村町の重要文化財の指定を受けています。 英義が生きた時代は、幕末動乱期です。藩士たちのため、門弟とともに、一心不乱に作刀に励んだ彼の姿をしのぶと、感慨はひとしおです。明治9(1876)年没。数え54歳でした。墓所は玉村町にあり、ご子孫もお住まいです。くしくもこの明治9年は、廃刀令が出た年です。 (上毛新聞 2010年8月21日掲載) |