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富岡製糸場世界遺産伝道師協会広報部長  外山 政子(藤岡市中大塚)



【略歴】東京都出身。明治大卒。県埋蔵文化財調査事業団嘱託を経て、現在高崎市榛名町誌編さん室嘱託。「はばたけ世界へ、富岡製糸場」の刊行にかかわる。



蚕飼育方法の確立



◎先人の英知と努力で




 もう今ごろは、初秋蚕の桑を食(は)む音が雨音のように蚕室に響いているでしょうか。今年3回目の養蚕です。以前、上蔟(じょうぞく)のお手伝いをさせていただいてから、蚕の不思議にとりつかれています。繭をつくるために少しでも高い方へ身を寄せていく様は、まるで集団が一つの隊をなすようで、いったいどこにそのような行動を誘発するシステムが隠されているのか不思議です。リーダーがいるわけでもなく、個体そのものの中に組み込まれた行動様式にしたがって生命を全うするための行動を展開していく姿は、観察すればするだけ奥深く、われわれ人間の生き方にもはね返ってくるものを感じさせます。

 さてこの蚕、桑を食べ脱皮し、また桑を食べ…と一見単純な成長過程をたどるようですが、飼育するとなるとそう単純ではありません。蚕ほど病気にかかりやすい虫もいないといわれるほどで、温度や湿度、桑葉の状態などさまざまな要素によって、蚕の成長が左右されます。「温度の虫」ともいわれるそうで、「蚕」にとって良好な環境を用意することが不可欠となります。

 江戸から明治時代にかけて、輸出の主力製品となった生糸は飛躍的な質と量の向上が求められていたはずです。日本の近代化を達成し、列強に対抗する政策実現の原動力「蚕業」の源として、大きな期待を負わされた蚕は、まず安定的に良質な繭を提供するために、成育方法の確立が求められました。このために多くの英知と努力が払われ、群馬県内では「いぶし飼」「清涼育」「清温育」などが、地域の研究熱心な篤農家層によって提唱されました。

 また各養蚕農家への啓けいもう蒙普及がさまざまな形で取り組まれています。彼らは江戸時代以来の地域リーダーとして、農民生活の安定化を養蚕振興に求め、成育方法の確立にたどり着いたと思われます。私することなく地域のため、農民のための研究であり活動だったことは、資料からもまた人々の記憶として今なお語り継がれていることからもわかります。中でも高山長五郎・町田菊次郎による「高山社」の活動は目を見張らせるものがありました。彼らの「清温育」という方法論は、基本的には現在の養蚕方法にも受け継がれていますが、何よりも注目されるのは、啓蒙普及活動に学校制度を取り入れ、理論と技術の伝習と共に各農家に「養蚕教師」の派遣を行ったことでしょう。技術は実際に作業をしながら習得するものであるという基本的な立場にたったものだと思われます。

 こうした先人たちの成果の上にたってもなお、現在の養蚕農家の方々は、日々の観察と工夫を積み重ねています。蚕はまた「けいこの虫」とも呼ばれるとか。「養蚕」もまた、膨大な技術集積によって支えられているとあらためて気づかされます。






(上毛新聞 2010年8月15日掲載)