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◎運営に必須の誠実さ 九州出身の知人があるとき、安中の人には古武士のような人がいる、と評するのを聞いたことがある。その典型がおそらく新島七五三太(しめた)こと襄だろう。新島襄に関する種々の事績については他の論者に任せることにして、今はその学校とその経営についての考えかたを題材にして考えてみたい。 いうまでもなく同志社のことである。たとえば安中教会で長らく牧師を務めた柏木義圓(ぎえん)もその教え子の一人であったが、柏木は正直に、新島先生の講義について、間違いが多い、教科書が古すぎる等々といった手厳しい「学生による授業評価」(現在、大学ではこれを行うことになっている)を下している。ではそうなのに、新島が慕われたのはなぜか。信仰うんぬんという要因はとりあえずおくと、それは、新島が自らの使命の場であった教育あるいは学校に対して誠実であったという一点に尽きるであろう。学校を、学生を愛し、そして慈しみ教育することに誠実であったということ以外のことではあり得ない。 閑話休題。昨今のテレビ番組で時折不愉快を感じることがある。それは出演するタレントが楽屋落ちのような話題に下品な拍手をしたりするときのことなのだが、それがなぜ不愉快な感じをもたらすのか、とくと考えてみた。 それはそうしたタレントが自分の「芸」に対して誠実でないからだ、と気づいた。未熟であること自体は悪いことではないのだ。自分の「芸」がないゆえに自信を持てず、結局のところ「芸」を披露することにおいて誠実になれないのである。見ていて片腹痛いばかりである。 さてこの誠実という倫理は、どこででも適用される。新島襄は自らが創立した同志社という学校を愛し、育て、維持するに誠実であった。そしてその誠実が多くの前途有望な青年を育てたのである。人目を引く奇異なパフォーマンスや取って付けたようなイベントが人を育てるのではない。まして新聞の一面を飾るような突発的な行事が人を育てるのではけっしてない。そう考えると、新島襄は学校の経営者、教育者としてきわめて高く評価されるべきではないか。多少芳しくはなかった「学生による授業評価」は、その誠実において現れた高い人格によって十分に挽回(ばんかい)されたのだ。 学校というものには金がかかる。また手間もかかる。この金や手間を惜しんでは国家百年の大計を担う人材を育てることはできない。しかし、やっかいなことには金や手間だけでは前途悠遠な青年を育てることはできない。学校を維持・運営する側の誠実、愛が必須なのである(青臭い言い方だが)。柏木義圓が安中の地を愛したように、教育者は教育の場を愛し誠実でなければならないのだ。 (上毛新聞 2010年8月8日掲載) |