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◎元社長に学んだスキル ザスパ草津に入社して、早いもので5回目の夏を迎える。このクラブに来ることになったのは、2006年に亡くなった故大西忠生元社長との関係である。 私は1995年、Jリーグに昇格したセレッソ大阪に現場のマネージャーとして入社した。翌年、大西さんがスカウトとしてセレッソ大阪に入社、さらにその翌年には、チーム統括部長となり、同時に私は大西さんの直属の部下となった。 チームは2000年のファーストステージ(当時は1年を2ステージに分けて順位を決定していた)で準優勝したものの02年にはJ2に降格、その責任を取って大西さんは辞任。私も思うところがあり、少し遅れてセレッソ大阪を去ることにした。 その後、大西さんは大学でサッカー部を指導しながら、同時にザスパ草津を立ち上げ、現・植木ゼネラルマネージャーと一緒に群馬県リーグを戦った。しかしその時、すでにがんに冒(おか)されていた。会うたびにやせていく大西さんが、それでも目を輝かせながら語る、ザスパ草津というクラブが常に私の頭の中にあった。 大好きなビールを飲みながら、かすれた声で「もう一度、一緒にやらないか?」。その言葉に、大いに悩んだが、心のどこかには、いつかザスパに行くものであろうと思っていたのも事実である。 思えばセレッソ大阪での7年間のほとんどを、一緒に仕事をさせてもらい、自身のJクラブで通用するスキルを教えてもらったのも大西さんである。それをJリーグに昇格したばかりのクラブに自分なら還元することが出来るだろう、自分自身がこのクラブにきっと必要だろうという勝手な使命感があった。 06年2月に私は、ザスパに現場のマネージャーとして入社した。セレッソ大阪の時と同じである。その時、大西さんは会社に出社することすら難しい状況にあった。6月、私が業務でブラジルに出張中、大西さんは亡くなった。 Jリーグの各クラブにはそれぞれの歴史がある。そこに集うサポーターの思いがある。働く選手・スタッフにも思いがある。 私が入社し4年半という歳月の中、フロント職員もいろいろな事情で去っていった。しかししばらくたつと、試合会場に応援に来てくれる。本当にうれしい限りである。皆やはりこのクラブが、どこかで気になるのであろう。私が携わるより前に所属していたフロント職員はもっと苦労していただろう。だからこそ、自身の中にザスパ草津が存在し、気になって、ふらっと応援に来てくれる。 私は、このクラブに携わってきた人たちのためにも、このクラブを成長させたいと考えている。そのモチベーションは下がることはない。 (上毛新聞 2010年7月28日掲載) |