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◎新陰流流祖は上州人 ふるさと群馬には、世に誇れる人が大勢います。今回は、その1人を取り上げます。 前橋市上泉町、上毛電鉄上泉駅から北へ500メートル。上泉城址があります。ここに上泉伊勢守信綱の立派な銅像が立ちました。作者は前橋在住で芸大出の新進彫刻家の桑原秀栄先生。伊勢守を大切に思う地元の人々を中心に、多くの方々の浄財で建立されました。 実は2008年が信綱の生誕500年にあたり、記念事業のため、実行委員会、顕彰研究会(渡邊善衛会長、事務局=上泉町自治会館=電話・ファクス027・269・4948)ができ、私は研究者の一人として参画しました。記念式典、銅像の除幕には、山形県米沢市の上泉家当主と一族の方々、新陰流柳生家22世など数百名が集まりました。 信綱は永正5年(1508)上泉家に生まれました。眉目(びもく)秀麗、長身の美少年だったと伝えられています。上泉家は、代々文武に優れた家風でしたから、幼いころから祖父、父の指導を受けました。やがて鹿島(茨城県)に赴き、本格的に修業を始めます。当時の鹿島は神宮の神職を中心に、優れた指導者がおりましたので、諸国から若者が集まって、文武両道の修業に励みました。 修業を終えた信綱は故郷に帰ってきます。この時、祖父の親友で「陰流(かげりゅう)」の開祖、愛洲移香斎(あいすいこうさい)が来て、信綱を一目見て非凡な才を見抜き、徹底的に流儀を伝授しました。信綱は工夫を重ね「新陰流」を創始したのでした。今の竹刀の原型、袋竹刀も彼の考案です。 当時の上州には上杉、武田、北条という大勢力が侵攻してきました。上泉勢は弱小でしたが、信綱は巧みな外交で切り抜けます。しかし、同盟していた箕輪城の長野氏が滅亡すると、新陰流を世に広めたいとして、京に上りました。大勢の門弟ができましたが、その中に、大和の柳生宗厳(むねとし)(石舟斎(せきしゅうさい))がいて、のちに新陰流の後継者になります。 京での信綱は、将軍足利義輝に剣技指導、正親町帝(おおぎまちていてい)の演武天覧と御前机下賜、従四位下昇叙という名誉に輝きます。また、権大納言山科言継(やましなときつぐ)と親しく交わりました。言継は外交手腕に富み、信長や家康と折衝して、衰微した皇室財政を立て直した実力派公く卿ぎょうです。 その日記(国重文・東京大学蔵)に、信綱のことが32回も登場するのです。このことからも、上洛後の彼の活躍ぶりが分かります。 信綱の剣の真髄(しんずい)は、「活人剣(かつにんけん)」。剣の道は人を活(い)かすもの、悲惨な戦乱を収束して、平和な世をつくるというものでした。家康はこれに共感して、高弟柳生家を指南役に選び、泰平の世の実現に活かしたのでした。 顕彰会は09年11月再発足、顕彰・研究・新陰流の稽古(けいこ)・交流などを続けています。 (上毛新聞 2010年6月27日掲載) |