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◎生き物の姿まで変える 今ごろは、春蚕の繭かきが終わり、養蚕農家の皆さんがほっと一息されているところでしょうか。例年ならばとっくに作業が終わっているころですが、今年は天候不順で作業全体が1週間ほど遅くなっているようです。 蚕に限らず生き物を生育する仕事は、天候や気温に大きく左右されます。生糸の輸出が国の経済基盤であったころ、原料である蚕の品種改良やその成育方法を確立することは、産業全体と養蚕農家にとって大きな命題でありました。まさに命綱であったでしょう。私たちが今、目にする「蚕」や「繭」の姿は、改良に改良を重ねて変化してきたものだそうで、江戸時代から明治初年のころはずっと小さかったと聞いています。よく「一つの繭から引き出せる糸の長さは1300メートルほど」と聞きますが、これは現在飼育されている品種での数字です。旧来の「小石丸」や「又昔」などは半分の600~700メートルだと言われています。 先日、吾妻川沿いの遺跡(長野原・東宮遺跡)から出土した繭を見せていただきました。1783(天明3年)年、浅間山の大爆発による泥流・土石流にのみこまれた屋敷、畑などが当時のままに姿を現した遺跡です。漆椀(わん)やげたなどの生活用具、柱や床板などの建築材も残っていました。さらに土間の奥から多量の繭が発見され、サナギがそのまま残っていました。その小さいこと、繭はつぶれた長さで2センチ幅1センチほどでした。「群馬200」では長さ約3・5センチ、直径2センチが平均的なところでしょうし、和種の代表といわれる「小石丸」は長さ約2・5センチ、直径1・4センチほどです。天明の繭はさらに小さいことになります。「又昔」あるいは「光白」という品種だそうです。天明のころ、吾妻では極細の糸をはく蚕が生産されていたことになります。その後の繭の大きさを考えれば、器械製糸の導入を契機として、蚕もその姿を大きく変えたことは間違いないでしょう。 近代産業が求める「理想」に沿って効率良く、均質で大量に高品質の糸を生み出すよう改良されたと思われます。器械の導入による技術変革は、生き物の姿までも変えていったのです。煮繭の加減さえも工夫、研究され、従来の座繰り用煮繭とは違って器械用の煮加減が設定されてきます。産業の変革が、生活の隅々にまで変革を迫ってくる様子が見えてくるようではありませんか。 群馬県には、こうした蚕業の変革を支え、また蚕品種を保存継承している機関「群馬県蚕糸技術センター」が存在しています。わけても種の保存には、今後の産業の命運がかかっているといっても過言ではないでしょう。息の長い研究結果の集積が、産業を支えていることに深い感銘をおぼえます。 (上毛新聞 2010年6月18日掲載) |