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随筆家  牧野 將(館林市上三林町) 


【略歴】旧満州国生まれ。1971年から本県に在住。長く金型設計業務に従事した。96年に放送大学卒業。著書に『赤陽物語~私説藤牧義夫論』がある。


未完の日本画(4)



◎宗教性みられない表現




 館林市出身の日本画家、藤牧義夫の体調に懸念が生じたのは1934(昭和9)年の春ごろでした。持病の蓄膿(ちくのう)症(副鼻腔(ふくびくう)炎)の悪化で苦しみ、手術を受けるため入院したのは、5月末から6月初めのことです。ところが、術後の経過は思わしくなく、病状は思うほど改善しなかったようです。

 藤牧は病み上がりの8月ごろより急に「絵巻」を描き始めます。それも精力的に…などときれいごとではなく、わき目もふらずと言うべき様相だったようです。まさか1年余り後の自分の「失踪(しっそう)」の予感があったわけではないでしょうが、「早く、早く」と、異様に描き急ぐ藤牧の姿が見えます。でも、藤牧の病状は相当悪かったようです。蓄膿症特有の周期的に襲ってくる頭痛などで、身の置き所のない苦しみに精神は異常(錯乱)をきたし、幻聴を聞き、幻視にも悩まされていたようです。関根正二の≪信仰の悲しみ≫も、蓄膿症からくる幻視の苦に構想を得たと伝えられています。

 病魔に苦しむ藤牧はわらにもすがりたい気持ちで、田中智学の「国柱会」へ通い始めました。国柱会は、日蓮主義を掲げる在家仏教教団です。しかし、国柱会は、仏教教団というよりも思想集団に近いように見えます。天皇を中心に強い日本を築いて行くとする国粋主義的な考え方でしたから、わが国が明治維新以来、天皇を中心に国論をまとめ、欧米の列強に対抗して来た政策に呼応するかのようで、当時としては社会的に大いに歓迎されたようです。智学は、大衆を引きつける個人的魅力をも備えた人物だったのでしょう。ですが、藤牧の悩みや苦しみは個人的なものです。国柱会は、国家主義的、全体主義的な運動に力を注ぐ集団です。藤牧の抱えている個人的な苦しみなどには対応しにくい教団だったようです。

 ≪絵巻・隅田川・全四巻≫のうちの「第一巻・申孝園之巻」は、右のような藤牧の抱えた事情の中で国柱会へ通った過程で描かれたもので、隅田川とは別のものでした。

 また藤牧は、版画の先輩格、小野忠重のプロレタリア美術への誘いに、面従腹背というか、優柔不断の態を装い応じませんでした。これは藤牧の思想信条を検証する際、見逃せない事実です。つまり藤牧は、自分がイデオロギーや信仰などになじめない生来的体質に気が付いていなかったようです。彼の絵画の多くが「大和絵」的な美しさをたたえていることから見れば「美を至上」とする天性に長じてはいても、思想・信仰には幼かったかも知れません。ここに、藤牧が仏教教団にすがったにもかかわらず、彼の作品に宗教性が現れていないわけが納得できるのです。事実、藤牧の版画・絵巻の多くは素直なまでの東京賛歌が表現され、宗教性も思想性も現れていません。






(上毛新聞 2010年5月27日掲載)