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県立女子大学文学部教授  市川 浩史(埼玉県深谷市) 



【略歴】徳島県生まれ。東北大大学院を経て県立女子大学文学部に。昨年設置された総合教養学科教授。博士(文学)。近著に『安穏の思想史』(法蔵館)。



人生の最期の段階で



◎冷静にみつめる準備を



 遅ればせながら樋口了一「手紙―親愛なる子供たちへ―」(原作詞・不詳/訳詩・角智織/補作詞・樋口了一/作曲・ストロングス/アレンジ・本田優一郎)を聴いた。いくつかの賞を受賞しているので読者にはすでにおなじみだろう。ここでは「旅立ちの前の準備をしている」「老いた私」(老親)が子供たちへ残すことばがストレートな旋律にのって語られている。素直に心の底にまで響いてくる詩とメロディーである。老親はわが子が生まれ自らの手によって成長し今に至っている彼らを見つめながら、また一方で壮年期から老年期を経て人生の最終的な段階に立ち至った自らを直視している。

 この詩には賛否両論がともに寄せられているというが、そのうちの否については、介護の実態やそれに伴う苦労はそんなきれいごとではないのだという意見に尽きるらしい。もちろん、その指摘はその通りであろう。それを否定する理由はない。しかし、日常的に目の前にある現実をどうするか、という差し迫ったこととは別に、今はまだ死が迫っていないと思っている大方の人々がこの詩に触れて何をどう思うか、という視点から考えてみたい。

 おそらく問題の中心は、詩の半ばの「旅立ちの前の準備をしている私に祝福の祈りを捧げて欲しい」というくだりにあるのではないだろうか。「祈って何になるのだ」「祈ったって現実は何も変わらない」といった反論は当然あるだろう。ただここで考えるべきは、この「祈り」とは無力感に責められて仕方なしに、祈ってでもみるかといった体のものではない。積極的に身を乗り出して、内に秘めた「祈り」とともに動くという決意表明のようなものであろう。「私の愛する子供たちよ」その決意をしてほしい、と読むべきだろう。なおまた、死にゆく肉親の死を残される者がただ単純に悲しむというのではなくて、祝福をもって受容することにこそ意味があるだろう。

 死は誰にでも訪れる。しかもそれがいつであるかは誰にもわからない。「老少不定」という言い方があるように、必ずしも年老いた者から順に死に直面してゆくというのではなく、いつ・誰に、は誰にもわからないのである。その「時」に騒がずに受け入れたいと願うのみだが、実際はどうなるか。しかしその時に、そのプロセスを、その瞬間を祝福をもって祈ってほしいとこの詩は言っている。たんなる悲しみとか落胆から発する大仰で即物的な言動などではなく、すべての人の生のなかの最後の段階で必然的に訪れるこのことを冷静にみつめた振る舞いをするための準備を、というのがこの詩からわたしたちが受け取るべきメッセージではないか。






(上毛新聞 2010年4月25日掲載)