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◎見えない力を伝える場 春になった。高崎映画祭の季節である。1987年の第1回から毎年欠かさず開催し、今年で24年目を迎える。おかげさまで全国の映画祭の中でも老舗に数えられるまでになった。老舗だからといってももちろん安泰ではなく、市民ボランティアによる任意団体であるし、資金調達やマンパワーの確保は毎年一からの気持ちで臨む。それでもこうして長い年月を重ねてこられたのはひとえに、高崎映画祭の活動に共鳴し賛同し協力してくださる方々がいるからである。そしてそれは、継続は力なりの言葉に立ち戻るのだろう。 高崎映画祭にボランティアスタッフとして参加したのが11年前。その時に、東京で観(み)られる映画の本数を10とした時、群馬は2だと数えられた。それを3にするために高崎映画祭があると言われた。同時に、日常的にさまざまな映画を選択できる環境を整えるためには、常設の映画館が必要なのだとも言われた。そうした環境が整えば、映画祭の役割は終わることになるのだろうかとその時ふと感じたものだ。 時代が進み、DVDやインターネットの普及で映画館に足を運ばなくても作品を観る機会は格段に増え、当時教えられた役割の意味あいが変わってきている。それでも劇場や上映会で上映される映画の役割と考えてみると、11年前とほぼ変わっていない。その当時日本で劇場公開される映画の本数が奉加洋画合わせて500本足らずだったものが、今や800本を超えている。もっと言えば割合的には24年前と今とではさして変わらないわけで、由々しき事態と思えなくもないが、つまりこの割合を落とさないこと自体が成果につながっているとも言える。これは、群馬に限らず全国に地域で上映活動に携わる人々が同様のことを感じていて、映画祭や映画館がなかったらと思うとそれこそ恐ろしい感じがする。10あるうちの3が地方都市で日常的に観られる映画の本数とした場合、残りの7をデジタル化の普及・推進によって賄えるならば、その時のこそ映画祭の役割は終わる時なのだろうか。 そう考えながらこの数年の高崎映画祭のプログラムに取り組んでいる。地方で観られない映画を届ける、その時だけに限れば、時代の技術はそこを賄うことができるはずだ。では、映画祭が今こそ持つ役割と意味は何であるのか。それは、映画が持つ目に見えない力を、きちんとくみ取り届けること、それに尽きるのだと思う。それは作り手の想(おも)いはもちろんのこと、観る環境であり、そうした総合力を表現し伝えていくことが、高崎映画祭の16日間なのだと思い。時代が変われば役割も変わるが、信念だあけは変わることなく受け継がれていくべきものと信じて邁進(まいしん)したい。 (上毛新聞 2010年3月3日掲載) |