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新島学園短大准教授  山下 智子(高崎市飯塚町)  



【略歴】福島県出身。同志社大大学院神学研究科修了。日本基督教団正牧師。サンフランシスコ神学校留学、会津若松教会牧師などを経て、2008年春から現職。


新島襄の人生



◎出会いを大切にした人


 新島襄は1843年1月14日、安中藩江戸屋敷で生まれた。現代の暦では2月12日にあたる。ちょうど今ごろの季節だったのだなと遠い昔に思いをはせる。

 学生たちに新島襄の話をする時に反応が良いのは名前に関する話題だ。新島の幼名は七五三太(しめた)。現代人の感覚からするとかなり変わった名前だ。しかもそのいわれが、誕生の時祖父が喜びのあまり思わず「しめた!」と叫んだからというあたりで、学生たちは興味をそそられるらしい。

 新島襄が襄になった経緯もなかなか関心が高い。新島は1864年に密出国し、1年がかりでアメリカにわたるが、その際新島を乗せてくれたワイルド・ローバー号のテイラー船長が初めて新島をジョーと呼んだ。つまりテイラーが新島をトムとかジャックと呼んでいれば、新島は襄ではなかったのだ。その後、新島襄のアメリカ生活をわが子同然に支えたハーディー氏は新島をジョセフと呼んだ。ジョーはジョセフの愛称であり、ジョセフは旧約聖書にでてくるヨセフのことである。

 新島襄という名はこの聖書のヨセフについて知るとより味わい深いものとなる。ヨセフは待望の子として生まれ父から溺(でき)愛されるが、異母兄たちのねたみを買いエジプトに奴隷として売り飛ばされてしまう。しかしさまざまな出会いに支えられて度重なる困難を乗り越え、ついにはエジプトの大臣となる。そして飢饉(ききん)で苦しんでいた故郷の家族を逆に救い、神が禍(わざわい)を転じて福とするよう導いてくださったことを悟るのだ。新島はこのヨセフに自分の人生を重ねあわせていた。

 なるほど新島襄も聖書のヨセフに負けない波乱万丈の人生だ。新島は当初密出国をした犯罪者であり、日本に帰れば命はなかった。それなのにアメリカで学び日本を救おうという情熱に燃えていた。言葉もしゃべれない、お金もない、頼る人もいないのだから、まったく無謀な志に思える。しかしテイラーやハーディーをはじめとする多くの人との出会いの中で、新島の夢は次第に現実のものとなり、ついに1875年、キリスト教主義により社会の良心となる若者を育てる同志社英学校を設立した。

 新島襄は出会いに恵まれた人だとうらやむ声をたびたび聞く。しかし本当にそうだろうか。わたしたちは、せっかく誰かと出会ってもその出会いを大切にできずそれっきりにしてしまうことが多くある。新島は出会いを大切にし、それを力に変えた人ではないだろうか。襄という名前からも、新島がその名前を与えてくれた人たちをどれほど大切に思い、彼らがその名前にこめた聖書のヨセフのようであれという期待に励まされ、感謝していたかが伝わってくるようだ。







(上毛新聞 2010年2月19日掲載)