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県立女子大学文学部教授  市川 浩史(埼玉県深谷市)  



【略歴】徳島県生まれ。東北大大学院を経て県立女子大学文学部に。今年設置された総合教養学科教授。博士(文学)。近著に『安穏の思想史』(法蔵館)。



平和の希求



問われる一人一人の質




 今年のノーベル平和賞がアメリカのオバマ氏に与えられた。いろいろな評価がされているが、事自体は画期的なことである。これは業績ではなく、理念に対してのものだそうだ。たしかにオバマ氏が核兵器廃絶を主張したことは事実だが、現実には現時点では核兵器は廃絶されてはいないからだ。

 古来、洋の東西を問わず、人々は「平和」を求めてきたが、それが本来の意味で実現されたことはたぶん無い。さて、過去の日本人のなかにも平和を希求した者がいた。親鸞がそのひとりである。こう記すと奇異に思われる方もおられるかもしれない。親鸞という人は「抹香くさい」坊さんで、念仏を唱えよ、と教えたというではないか、そんな人物と平和がどうしてつながるのか、と。

 ちょうど2011年が親鸞没後750年に当たるという。たまたまそのような時に『安穏の思想史』(法蔵館)という著書を上梓(じょうし)した。親鸞は晩年の書簡で「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と記した。古来解釈や評価が分かれてきた難解な書簡ではあるが、細かいことは別にして私の言いたかったことは、晩年の親鸞は、このことばを通して人々に「安穏」という語で表される世のありかたを示し、それを求めよ、と教えた、というところにあった。さらに親鸞はただ「教えた」に止まらない。宗教者親鸞は人々の信仰の「質」を問うたのである。信仰をもつこと自体はもはや問題ではなく、「安穏」をもたらすことができるかどうかのその揺らぎない質こそが問われる、というのである。また親鸞の側からすれば、そのような質を備えた人材こそが社会を真に支えるのだ、と言いたかったのかもしれない。

 これはじつに重要なことであり、そしてまたたいへん困難なことでもあろう。なぜならば、人の思想、あるいは人格の内実とその人の住む世界の中身とが相応することが求められているからである。親鸞はこれを求めた。ただ当時の人々がこれに十分に応えられたとは思えないが。

 現代に振り返ってみるとどうか。われわれの生活面における保守化の傾向ありと指摘されて久しい。たしかにこれほどまでに達成された物質的生活水準を落としたくないと願うのは人の自然な思いだろう。しかし、われわれはそのとき日本の社会全体、いや世界を見ているだろうか。われわれ自身だけでなく、われわれの周囲の社会、世界がいまどんな様子なのかを正しく認識し、動くことのできる一人一人の「質」こそが求められている。一人一人が何をするか、何ができるか、が問われているのである。

 今後のオバマ氏は、理念だけでなく、何をしたか、何をどのように求めたか、その質が問われることになる。そして、日本の場合も。






(上毛新聞 2010年1月4日掲載)