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こけし作家  富所 ふみを(前橋市元総社町)  



【略歴】大1971年より修業。78年独立。82年全国近代こけし展新人賞。87年同文部大臣賞。2007、08年全群馬近代こけしコンクールで内閣総理大臣賞。日本こけし工芸会代表。



群馬のこけしの源流



◎新しい技術加え次代へ



 こけしを作っている者としてこの欄を書かせていただくことになり、まず歴史を振り返ってみることから群馬のこけしを語っていきたいと思う。

 JR上越線群馬総社駅前広場の一隅に大きな石碑が立っている。行き交う人も特に注意を払うこともないが、一対の男女の童(わらわ)のこけしの像が左右にあって、こけしに由来するものだとわかる。石碑には「総社玩具元祖、関口専司翁之碑」と彫られてあり、碑文によれば、翁は明治時代、東京麻布でロクロ技術を習得し、1910(明治43)年春、当地総社町植野にロクロ工場を開設した。総社玩具と言われるものは、ガラガラ、コマ、ケン玉、ままごと道具などであったが、その名声は全国各地に及んだという。戦時中は、平和産業としての玩具製造は中断せざるを得なかった。戦争が終わり、長い間の抑圧から解放された人々が温泉地、観光地へ出掛けるようになり、旅の記念に木のぬくもりを持つこけしを求めたことで全国的に大変な人気を集め、群馬は生産高1位といわれる一大産地となった。

 東北地方には、色彩、形態など父子相伝の伝統こけしと呼ばれるものがある。それに対して群馬のこけしは近代こけしと呼ばれ、木を材料とし、ロクロ、旋盤を使うなどの不文律があるものの、他は全く作者の自由である。

 周囲を山で囲まれ、森林資源が豊富なこと、冬の空っ風が木材の乾燥に適していること、上州人の進取の気性など風土的な条件に恵まれ、群馬の産業として大きく成長した。

 草創期を知っている先輩に話を聞く機会があったが、いつ、誰が作り始めたかは分からないと一様に言う。しかしそこには戦前から受け継がれた総社玩具の確かな挽(ひき)物技術という基盤が存在したことは間違いない。

 関口翁の創業以来、来年でちょうど100年を迎えるが、先日あらためて碑文を見た時、その発起人として多くの先輩の名前が彫られており、当時の人の熱意が偲(しの)ばれた。

 このような近代こけし産業の蓄積の中から、より表現力を追求し、芸術性を高める一品制作的な「創作こけし」が生まれ、現在各作者の研鑽(けんさん)努力により多くの人々の支持を得ている。

 私自身は40年近く前、総社町の小さなこけし工場に修業に入って以来長い間こけしを作り続けてきたが、職業として自分の人生の過半を過ごして来たこけし作りの源流を思い、深い感慨を覚えている。

 100年の間に時代は大きく変化し、その世代世代によって作る物も変わってきた。「創作こけし」を工芸としてさらに発展させていくために新しい技術も加えながら、現代のこけしを作っていかなければならないと思う。今、こけし界は次代を担う若い感性を求めている。






(上毛新聞 2009年12月1日掲載)