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邑楽町教育委員長  加藤 一枝(邑楽町光善寺)  




【略歴】群馬大教育学部卒。教員として片品南小などに勤め、結婚後退職。病院の理事をしながら自宅で茶道教室「令月庵」を主宰。2003年から邑楽町教育委員長。



『泥の河』との出会い



◎見えないものを「見る」




 人は生きて、多くの出会いがある。20日、栃木県立真岡高校で、小栗康平監督作品『泥の河』が上映された。テレビ、パソコン、ゲームなど、スイッチを入れれば、こちらが望んでいなくても、映像や言語は瞬時に向こうから飛び込んでくる。700余名の男子学生。いつも見ているものとはちょっと違う映画との出会い。この子らは何を見るのだろう。

 この映画は、言語が流れを作り、ドラマチックな物語や激しい画面が展開する、というものではない。人のたたずまいやありようを、映像そのもので表現し、人が、「生きる」ということを、みごとなまでに描いている。そこに描かれた誰もが、他者を認め、そこにある自身をも認め生きている。その息遣いが、哀切をもって見るものに伝わってくる。監督の描く、一人ひとりの、生きることを見失わないそのまなざしが、私たちを、こんなにも心温かくやさしくしてくれるのだ。

 世界には、子どもが演じる映画はたくさんある。文学においてもしかりだが、子どもが子どものまなざしで見、聞き、思い、生まれる感情を描いているものは、そうはない。大人が、こうあるべきだ、こうあってほしいと思うことを、子どもを通して表現している作品は、あふれるほどにある。それは、大人側の作品である。『泥の河』は、そうではない。「見る」ということが、子どものまなざしであり続け、大人が見まもるまなざしであり続ける。

 私は、この映画をこれまで何度か上映した。邑楽町立中野東小学校が県教委の「映像教育実践協力校」だったときに、子どもたちが、最後に見たのは、『泥の河』。昨年、邑楽町での、「邑(むら)の映画会」でも取り上げた。「どろのかわはかなしかった」「あの子はどうしているのかな」。子どもたちは、今でも登場人物の少年の行方を追いかけている。

 今回、映画を見た高校生は言う。「また、見たい」と。生きていく節々で、この出会いを思い出すに違いない。映画を見るこの子たちの、真剣な背中を見ていて、そう思った。

 見えないものを見る、見えているものの向こうに潜む見えないものを見る。深く考える、じっくり向き合う、そんなときのふっくらとした時間は、「後で来る」ということかもしれない。私たちは出会うことで、どれほど多くのことを考え、思い、想像することか…。

 考えるという言葉には、アイヌの言葉で、「心震わせる」という意味があるという。生命(いのち)あることの大きさに畏敬(いけい)の心震わせる。生きることは、いろいろあるけれど、ここまで生きてきた感性の輝きを、心いっぱいに広げ、出会いながら、心耕しながら、これからも生きていきたい。




(上毛新聞 2009年10月30日掲載)