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◎愛情に匹敵する感動を 大泉まつりにボランティアで参加して早4年。今年(7月24―26日)は珍しく雨が降らなかったが、灼熱(しゃくねつ)の大泉町もまた最高だった。 まつりのボランティアといっても、町に住む日本人はあまり興味のない「ブラジルライブ」のボランティアである。いずみ緑道憩いの広場という大きな会場で毎年こっそり開催されているこのライブ、実は「大泉まつりプログラム」にきちんと載っている大泉町公認の催しものだ。その広場に入ればそこは外国。豪華なサンバ、ブラジルロック、アシェダンスを無料で見ることができ、ブラジルフードやブラジルBARの屋台まである夏のビッグイベントだ。 今まで私たちは多くのボランティア活動をした。すばらしいイベントの手伝いもしたが、つらいものも多かった。大泉まつりのブラジルライブは前者なのだが、テントの解体、ゴミの分別、例えばたばこの吸い殻1つまで素手で残さず拾うのだ。作業的には大変だが、主催者の方たちの熱意が伝わるし、毎年感動する瞬間がある。だからこそまた来年やりたいと思う。 ブラジル人には「ブラジルイベントで手伝っている珍しい日本人」として映っているのか、よく声をかけられるようになった。でも、ボランティアを長く続けていると思うことがある。ボランティアって言葉は誰が考えたのだろうと。もしかして、とても都合のいい言葉なのではないか、と。 私は自分の携帯電話の明細を見てしかめっ面をしてしまうような普通の女子だ。お金持ちでもなければ、時間を持て余している人間でもない。そんな人たちが集まって、誰かの幸せを本当に願えるのだろうか。1年に1度くらいならそんな日があってもいいだろう。でも1年の大半ボランティアをしていたら、忙しさのあまり、自分の幸せを忘れてしまう人間にもなりかねない。 私はボランティアとは物々交換みたいなものだと思っている。自分の持っているものと相手の持っているものを交換するのだ。自分が何かをしたら相手が何かを思う。そこから生まれる友情や出会いや感動、その他すべてがたまたまお金じゃないだけだ。でも、お金を稼ぐイベントなのに、当たり前の顔をして「無料」の私たちに仕事を依頼してくる人が多くいる。私たちは慈善事業をしているつもりなど全くない。心があり、目の前に抱きしめたい人がいるから体が動くだけなのに。 ボランティアという言葉が当たり前に使われるようになってきた今こそ問いたい。すぐ「ボランティア」を集めようとするイベント企画者の方々、手伝ってくれる方の深い愛情に匹敵するようなお金以外のものを、彼らに与えられる自信がありますか? (上毛新聞 2009年8月10日掲載) |