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富岡製糸場世界遺産伝道師協会会長 近藤 功(前橋市南町)




【略歴】前橋高、北海道大卒。教育現場と文化財保護行政を経て伊勢崎女子高校長で退職。「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産登録を目指し、2004年から伝道師協会会長。



高山社跡が国史跡に



◎「清温育」伝える宝物




 世界遺産暫定リストに登載されている「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産のひとつ、藤岡市の「高山社発祥の地」が、今年7月23日の官報告示で「高山社跡」として国指定史跡になりました。

 幕末から明治初期に生糸の輸出が盛んになりましたが、原料繭を供給する養蚕は、合理的、科学的な飼育方法が確立されておらず、蚕は運任せの「運虫」とも言われていました。繭の収穫量の多寡が農家の生活に直結し、日本の主要輸出品である生糸の生産をも左右するので安定的に繭を生産することは皆の切なる願いであり、飼育技術の改良は大きな課題でした。

 高山長五郎は、1830(天保元)年、緑野(みどの)郡高山村に生まれ、18歳で家督を継ぎ、山間地の名主となりました。25歳で養蚕農家として生きることを決意しますが、山間地の養蚕特有のオシャリ(カビによる硬化病)に悩まされ続けました。以来、試行錯誤を重ね、ようやく安定した技術を習得したのは長五郎が31歳の時でした。

 70(明治3)年になると長五郎は、高山村の自宅で、「高山組」を組織し、合理的な養蚕方法の技術改良と普及に取り組み始めました。当時の日本では、通風の重要性を説いた「清涼育」や、火力で気温を暖める「温暖育」などが唱えられ、一部地域で普及していましたが、長五郎は在来の技法の検証に加えて独自の観察や実験を重ね、新しい飼育法の研究を続けました。

 84(明治17)年、自身で確立した飼育技術を「清温育」と名づけ、学校として組織を整え「養蚕改良高山社」に名称も改めて、その技術普及に努めました。清温育は、温度が低い時や湿潤の時は火力を用い、気象状況に応じて空気の流通を調整するなど、蚕の発育に良好な環境を合理的に調整・管理する飼育法でした。この飼育法に適した家屋兼蚕室とするため、屋根には換気装置であるテンソウ(櫓(やぐら))を造り、養蚕火鉢を用い炭火による気流を使い汚れた空気を排出できる構造とする指導もしました。

 この飼育法は、89(明治22)年の農商務省蚕糸試験場の飼育標準法にも取り入れられ、明治末にはわが国における蚕の飼育法の主流となりました。長五郎は86(明治19)年に没し、その遺志を町田菊次郎が継いで藤岡市藤岡に「私立甲種高山蚕業学校」を設立、生徒は全国から集まり、日本一の養蚕指導組織に発展し、日本の標準的養蚕法として定着していきました

 史跡になったのは、75(明治8)年に建てられたテンソウを持った蚕室兼母屋や桑の貯蔵庫跡、長屋門、石垣などを含む屋敷地全体です。日本の養蚕農家の生活を支え、日本の輸出産業をも支える礎となった「清温育」を、今に伝える大切な宝物なのです。






(上毛新聞 2009年8月7日掲載)