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◎蚕種貯蔵で大きな貢献 旧官営富岡製糸場の正門を入ると、巨大なレンガ建造物が目に飛び込んできます。この建物が東繭倉庫であり、中庭への通路のアーチの要石には明治5年と建造年が誇らしそうに彫りこまれています。富岡製糸場には同型・同規模の西繭倉庫もあります。なぜ長さ104メートル、幅12メートルもの巨大な繭倉庫が2棟も必要だったのでしょう。それは、当時は春1回しか蚕を飼育することができなかったからです。つまり製糸場を1年間操業するためには、春の繭だけ1年分の繭を蓄えておく必要があり巨大な繭倉庫を建設したのです。 現在では蚕種の貯蔵や人工的に卵を孵化(ふか)させる技術の進歩に加えて蚕病防除、飼育技術の改良などにより、年に5回以上(春蚕・夏蚕・初秋蚕・晩秋蚕・晩晩秋蚕など)の繭生産が可能であり、現在の技術があれば、これほど大きな繭倉庫を必要としなかったでしょう。 さて、明治初期、富岡製糸場の初代所長、尾高惇忠は長野・安曇野で、天然の冷蔵庫である「風穴」で蚕種を貯蔵し、孵化時期を遅らせて蚕を育てていることを知り、これを応用して「秋蚕」として広め、蚕の多回育化を進めようとしました。しかし、春の蚕でさえ無事に育て上げるのが困難な時代であり、蚕の病気が多発する可能性が高まる秋蚕の普及には明治政府が反対しました。 その後、藤岡市の高山長五郎が唱えた「清温育」が広まり、蚕の作柄に安定がもたらされていきます。明治37年、高山蚕業学校に学んだ庭屋千壽が蚕種の風穴貯蔵に関心を持ちます。現在の下仁田町の荒船風穴周辺を選定調査し、父、静太郎に蚕種貯蔵施設の建設を相談します。そして翌年、県や県農会の技師に前橋測候所長も加わって1号風穴が完成しました。さらに41年、高山社の町田菊次郎社長や東京蚕業講習所長、県農業試験場長の合議で設計した2号風穴、続いて3号風穴を建設しました。この3基の風穴で蚕種紙の貯蔵枚数は約110万枚となり、日本一の貯蔵量を誇り、全国2府31県から依頼を受けて蚕種を貯蔵し、「風穴界の覇王」と呼ばれました。 管理事務の拠点は、現在の下仁田町本宿内の春秋館に置かれました。春秋館と荒船風穴は私設電話でつながり、出穴の指示がすばやく伝えられました。さらに荷主の出荷希望日に合わせて蚕種を徐々に常温に適応させるように工夫もされました。こうして風穴で保護された蚕種は、農家の都合に合わせて適時に出荷され、また養蚕の複数回化にも貢献していきました。 風穴と高山社の功績と連携を今に伝える荒船風穴。冷蔵庫の普及によりその使命を終えましたが、今でも石垣からは冷風が吹き出ています。 (上毛新聞 2009年6月19日掲載) |