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◎教育の場として注目 私は最近になって、三年ほど前の一つの事件を思い出している。それは、アメリカのペンシルベニア州にあるアーミッシュの学校で起こった乱射事件。 先生一人、生徒・児童二十数名の学校で女子生徒たちが処刑でもあるかのように一列に並ばされ、撃たれた。そして五人の子どもたちが死んでいった。 その痛ましい事件にショックを受け、またアーミッシュの人々の事件への対応に感動させられたが、私にとっての最も大きな衝撃は、銃口を向けられた十三歳の生徒の言動だった。 アーミッシュの学校では六歳から十三歳までの子どもたちがワンルームの教室で共に勉強し、十四歳になると学校には通わなくなる(ペンシルベニア州では十八歳までが義務教育だが、アーミッシュの信仰を尊重した特例的な措置がなされている)。 したがって、犯人によって先生と男子児童・生徒が教室の外に追い出された時、十三歳の少女は室内に残った最年長の生徒であった。彼女が銃口を向ける犯人に向かって「最初に私を撃って。そして他の子どもたちを助けて」と嘆願したと生き残った子どもたちが証言している。 この学校の子どもたちは、学力的には今日の先進国家の教育水準からはかなり劣るはず。しかしここでは上級生は下級生の面倒を見るのが当然とされており、子どもたちは日ごろから強い絆(きずな)で結ばれている。先生がいない時には上級生が先生の代役を務める習慣も自然と身についている。 だからこそ十三歳の少女が身をていして下級生たちを救おうとしたのだ。そして真っ先に狙撃され死んでいった。 四十年以上教師をしてきた私はこの事件からアーミッシュ教育に対する「敗北感」を感じた。私には、例え命をかけてでも仲間を救おうとする連帯意識と愛情、責任感を育てることはできなかった。 最近、「学童保育」を身近に観察し、そこに一条の光を見た思いをしている。学童は働く親が子どもたちを預ける「親を支援するための場」としての要素が強い。しかし、そこでは学校では困難な教育が自然になされている。 学年の異なる児童が共に遊ぶうちに、年長の子どもたちは年下の子どもに手加減し、面倒を見ることを学ぶ。他方、年下の子どもは年長者を信頼することを学んでいる。社会性の養育はそのような体験の積み重ねの中でしか培われない。それこそ、「ゆとり教育」が求めたものではなかったろうか。 学童保育を「親を支援する場」としてではなく、子どもが人としての在り方を学ぶ貴重な教育の場として注目していきたい。 (上毛新聞 2009年5月31日掲載) |