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◎食材禁忌を超えた心 健康志向が高まる昨今、禅寺の精進料理が大きく注目されている。講演会や料理教室がすぐに満員御礼になるほどの盛況ぶりだ。 ある時、聴講者に曹洞宗精進料理の定義を尋ねると、「殺生を戒める仏教の教えに基づき、肉や魚を用いず、野菜や穀物、海藻など植物性の食材だけで調理した料理」という模範的な回答が即座に返ってきた。中には「ダシはかつおぶしではなく、昆布や椎茸(しいたけ)、大豆などでとる」「卵や牛乳、チーズやバターも使用しない」「ネギ・ニラ・タマネギ・ニンニクなど臭(にお)いが強く精がつく野菜は修行の妨げになるため不可」といった詳細な知識を持つ方もおり、聴講者の理解の深さに敬服した。それだけ精進料理に対する興味関心が高いことのあらわれだろう。 しかしこうした辞書的な知識だけでおわってはもったいない。さらに一歩踏み込み、ぜひとも精進料理の心に触れて欲(ほ)しいのだ。 驚くなかれ、仏教を開いたお釈迦(しゃか)様は、実はときおり肉や魚も召し上がっておられた。通常は木の実や雑穀中心の枯淡な食事だったが、信者からいただいた料理ならば選(え)り好みせず、ありがたく手を合わせて食す柔軟な姿勢をとっていた。 のちに仏教教団が発展するにつれ、秩序維持の必要性などから食に対する制限が厳しくなり、それがやがて精進料理が発展する背景となるのだが、とかく規則というものは、時の経過とともに本来の目的や精神が忘れ去られて硬直化し、表面的な条文のみにとらわれがちであることに注意しなくてはならないと思う。 お釈迦様は、いきすぎた食材の選別はかえって真理から遠ざかってしまう、それよりもいかに正しきおこないを積むかの方がはるかに重要だと説いたのだ。 考えてみれば、肉食が殺生につながるというなら、野菜や海藻にも尊い命が宿っているのだから命を奪うことに変わりはない。しかし我々(われわれ)人間は、何かを食べずには命を保てない。ならば肉だ、野菜だという安易な区別に固執することよりも、目の前の食事に対して等しく感謝の念をささげて慎(つつ)ましく食事をいただく姿勢こそが大切ではないか。 食材の尊い命を口にする以上、おのれの血肉となってくれる食材に恥じぬような良き行いを積むべく日々努力反省することが、食材に対する真の不殺生であり、その努力を精進と呼ぶがゆえの精進料理なのだ。 そうした謙虚な姿勢で調理し食すなら、どんな食材を用いようが、皆さんの日常の食事がすなわち精進料理となるし、逆にいくら肉魚を避けてもその心がなければそれはただの野菜料理になってしまうのである。 精進料理を単なる健康食としてとらえることなく、その原点にある感謝と努力の心を大切にしたい。合掌 (上毛新聞 2009年5月19日掲載) |