視点 オピニオン21 |
■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
|
|
◎蜷川演出にショック 一九六五年夏、私は念願だった渥美清さんの弟子になれました。といっても毎日一緒に撮影現場に行くわけではなく、事務所での電話番、お客さまへのお茶出しや郵便物を渥美さんのマンションに届けたりすることの毎日でした。 ある日、テレビ「泣いてたまるか」の台詞(せりふ)を覚えるからと、相手役を演やることになり、気持ちを入れて読んだところ、「気持ち悪いよ」(笑い)。女性の役でした。「今はおれが台詞を覚える稽古(けいこ)だから、普通に読んでくれればいい…。でも悪いことじゃないよ。おれも実在する人物のものまねをしていたからなあ」。あの有名な「寅さん」も渥美さんの中にはモデルがいたようです。 付き人になって三年目、映画「男はつらいよ」で、タコ社長のところの工員の役をいただきました。撮影の最終日は、妹「さくら」の結婚披露宴の場面を撮影する日で、俳優が全員そろいます。しかし何と私は寝坊をして大遅刻。二時間遅れで撮影所に着いた時には、山田洋次監督は連日の徹夜で酸素吸入器をつけていました。 台詞が変更されていて、緊張と遅れた後ろめたさでパニック状態。その時、渥美さんが「石井、落ちつけ、現場のみんなにはおれの用事で遅れると言ってある。お前の台詞におれが合いの手を入れる! その方が演りやすいだろう!」とかばってくれました。 やがて、こんなにお世話になった渥美さんのもとを離れる日が来ます。付き人になって四年目です。 「石井、おれ、若いころ結核を患って片肺が無いだろう。だから疲れやすいんだよ。どうだろう、ずーっとおれの側にいて、付き人してくれないか?」と渥美さんに言われ、私は悩みました。自分も俳優になりたい、という思いが急に強くなりました。そんな時に「泣いてたまるか」の脚本家の清水邦夫作「真情あふるる軽薄さ」の舞台を見て、ショックを受けました。「世界の蜷川幸雄」の初演出でした。全学連、連合赤軍事件―と社会が大きく揺れていた時代。その蜷川演劇の現場に飛び込み、映像から舞台へ向かいました。 渋谷のシアターコクーンで六日から始まる「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」に出演します。三十六年ぶりの清水邦夫作品で、演出はもちろん第二の師匠となった蜷川さんです。渥美さんは「形をまねても駄目だ。その人の考え方や発想を参考にするもので、誰かのまねとお客さまに見破られたら役作りは失敗だ!」と言っていました。自分では気付いていないのですが、渥美さんの奥さまから「石井さんのお芝居を見てると、お父さんを思い出します」と言われました。渥美さんが一番好きだった舞台、きっとどこかで見てくれていることでしょう。 (上毛新聞 2009年5月3日掲載) |