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◎語り継ぐ運動拡大を 豪農・星野長太郎は前橋藩営前橋製糸所に学び、器械製糸の技術を身につけ「水沼製糸所」(桐生市黒保根町)を開設した。しかし、当時の群馬県の農民は、繭で出荷するより、上州座繰りで繭を生糸にして出荷する方が利益が大きいことを経験していたため、繭のまま出荷することになる器械製糸工場は、あまり歓迎されなかった。 そこで星野は、座繰り製糸で器械製糸に対抗できる品質の生糸を作る手段として、明治十年七月、改良座繰り結社「亘瀬組」を組織した。星野は座繰り結社で、座繰り生糸の品質向上に取り組んだほか、国内の海外商社を経ないで生糸の直輸出を目指し、弟である新井領一郎を渡米させ、直接アメリカに売り込むことに成功する。 この動きに呼応して、深沢雄象を中心とする前橋の士族たちは、明治十年九月には「精糸原社」を開業させる。さらにこの精糸原社の組織や規則を参考にし、明治十一年、安中の萩原音吉や萩原鐐太郎らは、農家による組合製糸「碓氷社」を明治十一年八月に発足させる。 碓氷社は、組合員が座繰りにより自宅で小枠に巻き取った生糸を集め、これを検査のうえ品質別に分けて大枠に巻き直す、いわゆる「揚げ返し」を行うことで、高品質の座繰り生糸の流通を実現し、統一銘柄で海外輸出を拡大させる。碓氷社の輸出が拡大するにつれて組合員も増加し、加入する地域も県内のみならず全国に拡大した。 ついには碓氷社をはじめとする組合製糸の生糸輸出は、器械製糸のそれを上回るようになり、世界の市場を席巻するまでに成長する。まさに、本県農民の知恵と行動力が日本の農家と農村を豊かなものにしたと言えよう。 その後、製糸器械の進歩等により器械製糸が座繰り製糸を凌駕(りょうが)する明治三十年代までは座繰り生糸の隆盛は続いたのである。 現在も、明治三十年代まで日本の基幹産業の中枢を担った組合製糸の遺産が県内各所に散在する。 特に「南三社」と呼ばれる碓氷社・甘楽社・下仁田社の遺構は、県民が最も誇りを持って残すべき遺産であり、碓氷社本社(安中市)や旧甘楽社小幡組倉庫(甘楽町)などがその代表であろう。 県では、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産登録で本格的に推薦書の作成に取りかかろうとしている。今こそ、組合製糸の遺産が残る各地域の人々が、世界を動かした組合製糸や群馬の農民の知恵と行動力が日本を支えた時代を、次代に語り継ぐ取り組みを拡大するよう期待してやまない。 (上毛新聞 2009年4月10日掲載) |