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◎居心地が地域の愛着に われわれの出会う風景を律する美的秩序の一つに「移ろい」がある。私が景観論の中で用いるその概念は、手短に言えば「とき」や「天候」に染まる美しさである。この種の無常の美はわれわれ日本人の琴線に触れたとみえて、「雪月花」「花鳥風月」などの象徴的な言葉を待つまでもなく、日本人の自然観や美意識と堅く結ばれてきたと言える。 さて、自分の美意識やそれまでに出会った佳景のイメージを眼前の眺めに投影するという楽しみや喜びがあることを前提にしての話だが、風景を楽しむということを考えた時、ただの眺めではなく、目に見えぬ気配や大気の揺らぎ、いわゆる雰囲気のようなものを含めて味わうようなところがあるように思う。難しい言葉だが、それは「気」と呼ぶようなもので、とりわけそれと分かつことが出来ないのが「移ろいの風景」であろう。最近は好んで、そのような景観体験を称して「風景浴」と言っている。 ところで、実際の風景浴の中身は複雑で一口には言えない。が、基本は五感の協働にある。そこではまず第一に眺めが挙がる。そしてそれに音や香りや皮膚の感触が寄り添う。たとえば、滝の眺めや小川のせせらぎ、浜辺や海岸に打ち寄せる波の光景も、音や匂(にお)いや湿り気がなければ腑(ふ)抜けになってしまうであろう。また、公園の緑陰は、樹木の形姿や色などの視覚的効果ばかりではない。枝や葉の奏でる音と、時折ほおをなでる風とが相まって心地良さが生まれる。商店街のにぎわいも、食べ物などの匂いや種々の音の刺激抜きの楽しさは考えられない。このように、風景浴とは、五感が互いを高め合うところに最大の魅力がある。 感覚の協働化は直接的な刺激のみで生じるばかりとは限らない。というのは、われわれは経験を通して、夏の公園で噴水を見れば、たとえそこから離れていても、涼しそうだという印象を持つ。公園の木々の揺らめきに風の涼しさを感じることができる。あるいは、遠く鐘の音を聞けば、境内の風情やお香の匂いを思い浮かべるかもしれない。このように風景浴では、刺激の窓口となる感覚があって、それがきっかけや媒介として、仮想的に他の感覚をイメージすることもある。しかも同時にうれしさや楽しさなどの気分を投影したりもする。人間の環境に対する知的で高度な働きかけのなせる技と言える。 このようにして、移ろいの風景を通し、風景浴で得られる心地良さは、その場の「居心地」を生むのはもちろんであるが、その経験の積み重ねが「住み心地」へとつながり、ひいては地域に対する愛着へと結ばれるのである。 (上毛新聞 2009年3月9日掲載) |