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群馬大大学院工学研究科教授  斎藤 三郎(桐生市川内町)



【略歴】】群馬大、東京工業大博士課程を経て、1988年から現職。再生核の理論を研究、専門書、入門書も執筆。若い世代に数学の魅力を伝える活動にも力を注いでいる。


裁判員制度


◎「国民一律」無理がある



 素人の意見を広く求めるのは、古くから行われてきた重要な考え方である。しかし、国民をその型にはめ、一律に行う裁判員制度は、現代社会では無理があり、混乱と大きな時間的、財政的、行政的な無駄を生み、良い結果どころか大きな悪い結果を生むだろう。幾つかの問題点を具体的に指摘する。

 制度を実行し、進めるには行政的な手間と時間がかかる。特に財政厳しい状況下では大きな無駄を生む。

 無駄な議論と関心を氾濫(はんらん)させることにもなる。この犯罪はいかなる程度の犯罪か、公正な判断か、というような議論や関心を世に広めることになるからである。

 このことは、町でこのように良い文化的な企画がなされている、このように面白い行事が企画されているなどのニュースの代わりに、暗く悪いニュースを氾濫させることになるだろう。すなわち、社会全体が法廷のような暗い色彩を帯び、明るく実りある話題やニュースがそれだけ少なくなることになる。

 一般の人が人を裁く裁判に関与することは、はなはだ問題である。そのようなことで、時間を費やすことを好まない人や、ふさわしくない人、また希望しない人が相当数現れることが考えられる。多くの人は、裁判で時間をとられたり、関与することに、耐え難い苦痛を感じるだろう。

 また、選ばれた少数の人による判断が、全国的なレベルで公正さを維持するのは難しく、すなわち公正な裁判を要求し、期待することには無理があると考えられる。公正さを求めるにしてはあまりにも大きな負担を一般の人たちにかけることになる。また、公正な態度で多くの人が臨むかどうかも疑念を抱かざるを得ない。

 大きな社会で、裁判において、一律一様の考えには無理があり、ある程度の専門性を維持していかないと、運用上も、無理が生じると考えられる。

 戦後六十年以上もたっているが、これまで裁判に時間がかかり過ぎることに対する批判はあっても、制度や結果に対する批判がほとんどないのは世界的に見て異例。この観点からも、従来の日本の裁判制度自体は高く評価されるべきであって、改めるべき本質的な問題は生じていないと考えられる。

 このような状況に鑑(かんが)み、例えば国民を一律に対象とする考えを改め、裁判に参加を希望する人を公募して登録しておき、その中から裁判員を選ぶといった修正を速やかに行うべきである。少なくとも、裁判に強制的に参加させるべきではなく、参加しない権利を明確に認めるべきであると考える。




(上毛新聞 2009年1月24日掲載)