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県立女子大准教授 権田 和士(東京都豊島区)



【略歴】旧尾島町(現太田市)生まれ。金沢大文学部卒。東京大大学院修了。太田東高、恵泉女学園大などを経て、県立女子大文学部准教授。日本近代文学。



教育機関


◎「学び」を支援したい


 先だって、「ぐんま新世紀塾・利根沼田講座」において、「現代詩の楽しみ」と題する講義を行う機会をいただいた。このような講座に参加される高齢者の方々の向学心に満ちた生き生きとした姿は、県立女子大で行われる各種の公開講座や、「美しい日本語」をはじめとするさまざまな公開授業、また年に三回のペースで行われている「群馬学連続シンポジウム」などでしばしば見かけている。

 講師をつとめるこちらはようやく教員の仕事に慣れてきた若輩で、聞き手の方々はそれぞれの職場・家庭・地域で長い間働き、さまざまな経験を積み、なお進んで多様な学びを自主的に行おうという人生の大先輩たちである。普段は自分の半分くらいの年齢の学生に向かって教えているが、今回は教える自分の方がはるかに若い。

 自分が普段より緊張していることは講義を始める前から自覚していたが、話し始めてもなかなか緊張が解けない。ようやく緊張が解けたのは、途中で十分ほど取った休憩時間に、教室の窓から近くの山々を見ながら、参加者の方と二言三言ことばを交わしてからだった。

 そのときは、どうしていつまでも緊張が続くのか分からなかったが、私は「教える」ということにしばられていたのかもしれない。「ぐんま新世紀塾」で自分よりも年長の方々に向かって講義を行ったときに、ふだん学生たちに話すときとは違う緊張を感じたとすれば、いつもの教室での話法がそこでは通用しないことを私自身が直観していたからに違いない。教員は自分の得意とする分野に関する知識を年少者に向かって「教える」ことを日常の業務としている。例外はもちろんあるが、多くの場合、知識においても経験においても教員のほうが勝っているから、知らずしらずのうちに、教員は学生の上に立つ者として振る舞ってしまう。もしふだんの教室での話しぶりが、「教える」自分の立場を中心として学生たちを見下ろすようなものであったなら、率直に反省しなければならない。

 学生たちは彼ら自身が「学ぶ」ために学校に通っているのであり、教師たちから「教え」を受けるために教室に座っているわけではない。現代の教育機関の役割は、児童や生徒や学生たちの多方面にわたる「学び」を、個々の発達段階や個性に応じて、学習を中心としてさまざまな面から支援していくことであろう。そのような教育機関の職員として、学生たちと地域の方々の「学び」に少しでも貢献できるよう努めていきたい。




(上毛新聞 2008年10月18日掲載)