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◎言葉を立ち上げる喜び 音読の話や実演を頼まれたとき、日本や外国の民話を数編語ったあと、必ず詩を幾つか読むことにしている。詩といっても、例えば島崎藤村「千曲川旅情のうた」や、北原白秋「落葉松」などはほとんど読まない。読めば気持ちがいいことは確かだが、詩のリズムに流されてしまう心配があるからだ。 ではどんな詩を読むのかといえば、谷川俊太郎、阪田寛夫、まどみちお、茨木のり子の作品などを読む。 谷川俊太郎は「自作を読む」というカセットブックの付録の中で、こう書いている。 「声よりも文字、音読よりも黙読、韻律よりも意味というふうに、日本の詩は近代から現代にかけて変化してきました。…それが現代詩に思想性や批評性をもたらしたのはたしかですが、同時にそれが現代詩を一種の『袋小路』に追いこんできたことも否定できません。その『袋小路』から出てゆく道のすべてではないにしても、少なくともひとつとして声をよみがえらせるということがあると私は考えています。」 少し引用が長くなったが、これが実作者の側のことばだとすれば、詩を享受する側としては、与えられた詩を音読することによって、ひとつひとつの文字を立ち上げていくことが大切だと思う。 漢字には意味やイメージがついて回るから、ひらがなで書くといって、たくさんのひらがなの詩を書いているが、そのひとつに「いるか」という詩がある。 〈いるか いるか いないか いるか いない いない いるか いつなら いるか よるなら いるか またきて みるか〉 この詩の前半だけ写してみたが、この詩の音読は容易ではない。なぜなら、いるかの三文字が両義性を持っているからである。 この詩が教科書に載ったとき、作者のところに教科書会社から問い合わせがあったという。この詩には何匹いるかがいるのですか。真面目(まじめ)な谷川さんは一生懸命数えてみたが、何匹いるか分からなかったという。 これは多分、皮肉をこめた冗談だろうと思う。詩というものは分析的に読むのではなく、暗唱できるくらい読んで、ことばの響きを楽しむべきだと、いまの国語教育のあり方をやんわり皮肉ったのだろうと思う。 文字は音読することによって立ち上がり、命がふきこまれる。詩こそ音読によって言葉が立ち上がってくることを実感できるものであって、その瞬間に感じる喜びは、まさに生きていることの喜びにほかならないのである。 (上毛新聞 2008年10月8日掲載) |