視点 オピニオン21 |
■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
|
|
◎高度なプロ集団では? JRの碓氷線(横川―軽井沢)が一九九七年秋に廃線となって満十一年となりました。今では残された鉄道遺産に関心が高まり、多くの人たちが訪れています。この機会に碓氷線建設にまつわる伝承について検証しますと、幾つかの疑問や新しい発見がありました。 多くの文献や地元の言い伝えでは、「碓氷線工事人夫は、全国より集められたならず者で国の命令で強制的に就労させられ、飯場は俗に言うタコ部屋で近隣の者は近づかなかった」とされています。しかし、現在残されているトンネルや橋梁(きょうりょう)の意匠や煉瓦(れんが)積みの技術を見るとき、果たしてそうした集団が、こんな立派な工事を短期間に完成させることができたか、と疑問に感じます。 一八九二年一月の東京日々新聞には、当時全国の鉄道工事が一段落し、それまで各方面で活躍していた大小請負業者が、こぞってこの工事に参加した、と掲載されています。この工事には大手請負業者のほか、中小請負組が参加。工夫は一万四、五千人ともされ、請負、帳元(ちょうもと)、下請け人、小頭、工夫からなったといいます。その組織は当時の警察軍隊より厳しく、そのため組織に反した時は、集団リンチ等の体罰も度々起こりました。これが地元の風聞となり、ならず者うんぬんとの噂(うわさ)になり伝承されたものと推定されます。 芸術的な橋として有名な「めがね橋」は、記録によると七カ月余の短期間で完成されています。このことを見ても、鉄道工事は、高度に組織化されたプロ集団が中心になって進められたのではないかと思います。 五百人の受難者を祭る鹿島組招魂碑のことは三月四日付のこの欄で記しましたが、いまだ記録も発見されず、謎に包まれています。特に碓氷線工事完了九カ月前に建立されていますので謎は謎を呼び、諸説が論議されています。 そこで朝夕、慰霊碑に接する地元の一人としてこんな仮説を立ててみました。 碓氷線工事も大詰めに近づき、各工区で元請け、下請けの組員が一丸となって工事を進めていたところ、鹿島組下請けの明業舎受け持ち工区に原因不明の事故が続発。過去の工事受難者の祟(たた)りとの風聞が広がり、工夫の恐怖・動揺から、工事の遅れが顕著になってきました。そこで、これまで全国各地の鉄道工事において受難した人たちを鎮魂するため、明業舎代表が願い人となり、招魂碑を建立し、慰霊しました。すると風聞も収まり、労務者も一層結束し、工期内に工事を無事完成することができたのです。 これは私人としての仮説です。しかし、謎は謎として、碓氷線建設苦難の歴史は、毎年開催される慰霊祭とともに郷土の文化遺産として、後世に継承したいと、会員とともに決意を新たにしています。 (上毛新聞 2008年10月3日掲載) |