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群馬工業高等専門学校特任教授 小島 昭(桐生市本町)


【略歴】群馬大工学部卒。社会問題となっているアスベストの無害化技術研究に携わっているほか、炭素繊維を使った水質浄化と藻場形成にも取り組んでいる。



戦争と私

◎写真の父しか知らない



 先月十五日、桐生市雷電山忠霊塔で戦没者追悼式が行われた。参加者は年々激減し、今年は三十人を切った。式の開始時、「海行かば」のテープが流れる。若い時には、この曲を聴いてもメロディーとして感じた。しかし、ここ数年は、曲よりも歌詞に意識が向く。「海ゆかば みづく屍(かばね)、山ゆかば くさむす屍」とある。歌詞の意味が分からない時には、「カバ」の歌かと思った。しかし、この歌詞の光景を描くと「累々たる死骸(しがい)の山」となる。さらに「大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ」とあり、難解な言葉である。歌詞の意味は、「大君のおそばに この命を投げ出して 悔いはないのだ。けっして ふりかえることはないだろう」。

 戦争時、この曲は繰り返し、繰り返し、ラジオで放送された。玉音放送の時にも使われた。この曲が繰り返されることで、戦争は正当化され、正義となった。国民の価値判断は曲げられ、反論の許されない世界がつくりだされた。現代の判断基準からすれば、受け入れられないことが、正当化された。

 最近、NHKなどで戦争時の記録映像が放送される機会が多くあった。そこには直視できない、恐ろしい記録が映し出された。それを見た夜は、それらが脳裏に刻み込まれ、地獄の夜を迎えた。戦死された兵士の顔、死骸の山、火だるまになってころげまわる兵士、逃げまどう市民、恐ろしい光景の連続であった。

 なぜ、映像にショックを受けたのか。私の父は、一九四五(昭和二十)年二月、フィリピンで戦死した。父は、切り込み隊の一員として、戦に負けて逃げ込んだ山中からマニラ奪還に向かった。その途中、機銃掃射に遭い死んだと聞いている。二十七歳であった。戦死の証拠はない。切り込み隊は、生きて帰ることのない部隊である。戦死の報を受けたのは、戦争が終わって二年後であった。

 父は旧制中学を卒業し、家業を継いだ。二十歳になるとすぐに入隊し、二年間の軍隊生活を送った。その後、母と結婚。四三(同十八)年九月、私は生まれた。翌年二月、父は生後五カ月の私と妻と病気の父母を残して高崎連隊に入隊した。私は写真の父しか知らない。父はその日以来、桐生に帰ってくることはなかった。母は、赤子の私をかかえ、混乱した戦後の社会を必死に生きてきた。夫は生きているのか、死んでいるのかもわからずに、その日暮らしの毎日であった。

 今、日本は平和な時代を過ごしている。私は、父の二倍以上も生きている。幸いにも私は、銃を手にすることはなかった。これからもないと思う。世界情勢の変動によっては、国民が銃をもつ時が来るかもしれない。わが子が銃を手にする時が来た時、父としてどう行動すればよいのか?




(上毛新聞 2008年9月6掲載)