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◎通念を疑ってみよう 大学院に入学して以来、小林秀雄という批評家の研究をしてきた。学生だったころ、「なぜ詩や小説ではなく批評の研究をするのか」という問いを投げかけられて困った経験がある。夏目漱石を研究する学生に「なぜ漱石を研究するのか」という問いを投げかける人はあまりいなかったから、おそらく質問者の真意は「批評は文学研究の対象なのか?」という点にあったと思われる。 この問いに答えるために、批評も詩や小説と変わらない「文学」でありうることを説明しなければならなかった。それには「文学」とは何か、という大きな問いと向き合わなければならない。この問いに対して、皆が納得する回答を示す自信はいまだにないが、暗黙のうちに了解されている「文学」という概念を検討することから始めなければならなかったことは、結果的にはよかったと思っている。学問は通念を疑うことから始まる、ということを今では確信しているからである。 私たちは一口に「日本の近代文学」と言うけれども、「文学」という言葉と同様、「日本」という言葉も、「近代」という言葉もその領域は必ずしもはっきりしていない。「日本」という言葉が指し示すものは、その空間の拡ひろがりひとつとってみても、古代から現代にいたるまで、時代時代で常に変動しており、決して不変ではない。 「近代」という語にしても同様である。通常、明治政府の成立をもって「近代」が始まると考えられているが、憲法をはじめとする、さまざまな近代的制度は明治維新と同時に成立したわけではない。しかしその一方で、明治維新以前に既に近代的な思想が力を持っていたからこそ、封建制度にかわる近代国家を立ち上げることができた、ということもまた確かである。 「近代」とは何か、という問いにはさまざまな回答がありうるが、近代思想のルーツが宗教的権威に対して人間性を肯定した、西洋のルネサンスにあることは間違いないだろう。従って、近代思想の根底には、人間とその社会を支配するのは神や仏ではなく、現に生きている人間自身であるという発想が必ず流れている。 このように考えると、日本の近代の始まりを、明治維新ではなく、宗教勢力と徹底的に戦った織田信長が切り開いた安土桃山時代に認めることも可能になる。戦国時代が、子どもから大人まで多くの歴史ファンにとって魅力をもっているのも、その実力主義の近代性ゆえかもしれない。『大言海』という明治期の国語辞典には「下克上」の項目に「でもくらしいトモ解スベシ」とある。 (上毛新聞 2008年9月1掲載) |