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ぎゃらりーFROMまえばし主宰 高橋 里枝子(前橋市上小出町)


【略歴】前橋市生まれ。立教大史学部中退。書店・煥乎堂元取締役。学校・公立図書館やギャラリーを担当。2006年1月「ぎゃらりーFROMまえばし」を開設。



往生際

◎動植物のように毅然と


 人生を変える不思議なタイミングというものがある。

 子供のころから病弱だった私だが、二十歳を過ぎてからは、ほとんど寝たきりの日々が多くなり、自宅が病室のような生活をしていた。体温を測る五分が数時間にも感じられるほど、「苦しい時間」は過ぎるのが遅かった。身を守るためか、命に関係ないところから身体の機能は落ちてゆくようで、視界は暗くなり、払うこともできず頭の上を飛んでいた蚊も、私を生き物と認識しなかったらしく枕もとで餓死していたのを見つけた時には、さすがに淋(さび)しかった。

 少しでも良くなることを信じ、長い夜を耐えて、すがるように朝を迎えていたが、ある日それにも疲れて「もう朝が来なければいいのに!」と思ったことがあった。その自分に愕然(がくぜん)として、これが年をとるということなのだと思った。人が死ぬ前に考えるであろうことをすべて考えていた。

 可哀想(かわいそう)だと思ったのだろう、枕もとに小さなテレビを母が置いてくれた。それもほとんど具合が悪く見ることもなかったのだが、ある日スイッチを入れてみた。するといきなり動物の死を特集したドキュメンタリーが映し出された。

 なぜ見続けたのか? 今思うと不思議だが、死期の近づいた象がよろよろとひたすら歩き続け、大きな湖にたどり着く。それより先にはもう進めない。象はそこに立ち尽くし、倒れた後も命が尽きるまで、あがくことなく静かな目をしていた。次はシマウマ。三頭のライオンに捕らわれたシマウマが腰や腹などを食べられながらも、力尽きるまでなお首を高々ともたげ、けして騒がず遠くを見つめていた、やはり静かな目。

 これを見た時に、自分はなんて日々をのた打ち回ってきたのだろうと思った。恥ずかしかった。せめて死ぬ時ぐらい、あの象やシマウマのように立派に毅き然ぜんとしていたいと思った。人間はなんて往生際の悪い生き物なのかと。

 たぶんその時から私は完全に居直ったのだ。そして時間がかかったが、確実に回復していった。

 そのお蔭(かげ)か何年か前、癌(がん)になった時も周りが呆(あき)れるほど淡々と治療ができた。そして、もうそろそろ人間ができてよい年になったが、今までよりずっと短いはずのこの先を考えると、なかなか往生際が良いとはいえない。やはりいつまでたっても、あの象やシマウマには適(かな)わない。

 それでも、せめてもの悪あがきをしながら、少しでも草花や動物のように自然に、見事に生きたいものだと思っている。そんなふうに、あの不思議なタイミングが、今でも私を支えているのだ。





(上毛新聞 2008年8月18掲載)