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◎建郡の喜び刻んだ宝 上毛かるたに「昔を語る多胡の古碑」とあるその石碑は、何を語っているのでしょうか。石に刻まれた多胡人の声をきいてみたくなりました。 上信越道「吉井インター」で下車、七分ほどで多胡碑記念館に着く。そこにガラスに囲まれた多胡碑があり、ゆったりとほほ笑む。それにしても不思議なのは、石碑ただひとつで、これほど立派な記念館が成り立つのはどうしてなのか。思わず帰りがけに『吉井町誌』という本と、多胡碑のミニチュア版を手に取り、土産にしてしまいました。 昭和四十九(一九七四)年刊の同町誌に、多胡碑は(1)和銅四(七一一)年、今から千三百年前につくられた(2)那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)、多賀城碑とともに日本三碑といわれる(3)山ノ上碑、金井沢碑とともに上野(こうづけ)三碑とよばれる(4)新たな郡(または町)を記念しての石碑としては全国唯一である―と記されています。 多胡碑の内容は「上野の国に、新たに多胡郡ができました」といえばアッサリし過ぎますが、今の世の市町村合併と反対の、地名誕生の記念の証しです。碑文は、朝廷から下された、命令書そのもの、公文書そのものを碑に刻んでしまったとされ、今ではとても考えられないことです。いわば超拡大立体コピー版です。 公文書それ自体を石に刻ませた力、そのエネルギーはどこから出たものでしょうか。吉井町誌によれば、多胡周辺には古くから、朝鮮半島からの外来人が多く住み、地名「多胡」の「胡」は外来人を指し、多胡自体、外来人の多く住む土地を表します。甘楽郡の甘、「かん」は「韓」からきているとされます。 朝鮮半島から移住した外来の人々は、先進文明をこの地へ運び、新たな暮らしを始めたことでしょう。日本の地に住み、営み、そして同化していく過程で、「われわれの町が新たにできたんだ」―そういう喜びを表現したかったのではないでしょうか。 町誌の百八十七ページに次のようにあります。 <多胡碑は全国唯一の建郡の記念碑である。多胡郡は外来人を主体とし、関東で最初に設置されたものだけに、その喜びはたとえようもなく、その喜びを石に刻み、後世に伝えようとした> ひとは圧倒的な喜びにあたり、何かをしたくなります。また、あまりの家族の不幸にあたり、悲しみ、記録したくなります。喜びの証しが多胡碑、悲しみの記憶が、山ノ上碑(墓誌)でしょう。千三百年間、この碑を地元民は愛し、大切にされてきました。たとえ国宝の指定を受けずとも、多胡碑は、国の宝であり、日本のタカラなのです。 (上毛新聞 2008年8月6掲載) |