視点 オピニオン21
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染織家 伊丹 公子(島根県津和野町)

【略歴】岡山県出身。京都で染織作家として活躍。1999年に島根県に移り住み、2000年から津和野町の「シルク染め織り館」館長。玉村町で手織り教室を主宰。





親友をみとる

◎私も素敵に生きたい

 先月一日、三十年来の親友を癌(がん)で亡くした。彼女の手術の前後五十日ほど、私は東大病院で看病した。進行性の癌で、余命の短いことなどを医者から聞かされる時、片方の手は彼女のご主人が、もう片方を私が握ってあげたが、彼女は冷静にそれを受け止め、「はい、分かりました。おまかせします」といじらしいほどだった。

 二十四時間の長い大手術の朝、手術場へ入る時、初めて目に涙をためて、「頑張ってくるから。伊丹さん、待っててな」と私に抱きついてきた。

 彼女夫婦には子供はなく、姉妹もないので私を姉のように慕ってくれていたが、私は彼女に教えられることがたくさんあった。病室でクリスマスやお正月を一緒に過ごし、話したことなどを思い出すたびに涙が止まらない。

 二月に退院して、四月、私が病に臥(ふ)した時もすぐ電話をくれたのに…。亡くなる前日、私は転院先の千葉・浦安の病院へ駆けつけた。その時は私を待っていてくれたように、意識がはっきりしていた。それから安心したように私の手を一晩中握っていた。

 うわ言に私がちょっとでも手を離すと、意識のない彼女が私の手を探す。ずっと寝ずにいろんな話をしてあげると「はい、はい」と返事をしてくれたが、片方の手で「山へ―」「石がない」などのうわ言に、私は必死で「Mちゃん!! まだあっちへ行ったらあかんよ」と言うと、手を下ろして「ありがとう」と言ってくれ、翌日天に召されてしまった。

 どこまでも心乱すことなく、最後まで静かな人だった。そして私は“姉”として初七日までずっと付き添ったが、まだ私自身全快してない身なのにその時はしんどさも感じなかった。てきぱきと事を進め、津和野に戻った途端、私にはまだ命があったと思うほどに無我夢中の一週間だった。

 まだ六十歳になる前のM子にもっと生きてほしかった。M子の母は、少し認知症があり、娘の死をどこまで受け止められているか…。これからは私が時折、施設にいるM子の母を訪ね、その折々に“娘”になってあげたい。

 私は人さまのお世話をさせていただく運命(さだめ)に幸せを感じるので、苦にならない。もう少し私が若かったらと思うものの、無理をせず、あまり気張らずに、自然体でできたらいい。結婚の遅かった彼女だが、病気になって一層お二人の愛の深さを知り、幸せだった結婚生活の中で天に召されたことが何よりの救いだと思う。

 Mちゃん!! あなたの素晴らしいところを見習い、あなたとの思い出を大事にして、私も素敵(すてき)に生きたい。あなたはいつもそよそよと春風のような人でしたね。ありがとう!!

 そしてご冥福を祈ります。




(上毛新聞 2008年8月1掲載)