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うすいの歴史を残す会会長 柴崎 恵五(安中市松井田町横川)

【略歴】 蚕糸高(現安中総合学園高)卒。戦後、瀑見(たきみ)保育園設立。1993年から現職。社会福祉法人育誠会理事長。元松井田町議4期。元県保育協議会会長。

今も昔も変わらない

◎法は人なり

 私の住んでいる町にあった碓氷関所は江戸時代、全国五十四カ所あった関所の中で、箱根関所とともに大変取り締まりが厳しい関所でした。

 碓氷関所が設けられたのは一六二三年で、警護の万全を期すため、南北辺遠囲(とうがこい)行程およそ百十二キロ、南北辺近囲(ちかがこい)およそ十六キロは関所領内とし、近囲はもちろん、遠囲の中でも勝手に通行は許されませんでした。囲中(かこいちゅう)でカヤを刈っているところを役人に見つかり、名主、組頭連名で謝罪書を差し出した等、類似した事件の記録が近隣各所で発見されています。

 関所破りの刑は重く、まず江戸に送られ、最高刑の死刑になると、破った関所に送り戻されて処刑場で磔(はりつけ)になりました。

 特に「出女・入鉄砲(いりでっぽう)」の取り締まりは厳重で、安中領での御触書(おふれがき)には「みめかたちよき女房なるも物詣(ものまいり)、遊山(ゆさん)すぎる女房は離縁すべし」とあり、いかに幕府が女の旅を制限したかを物語っています。

 私たちは、通常関所破りは関所を暴力をもって通過する者と考えがちですが、詭弁(きべん)をもって通過する者、間道を迂回(うかい)し通過する者、関所の抜け道を教えたり手助けした者等も関所破りとして厳しく罰せられました。碓氷関所における関所破りの処刑は、寛政年間(一七八九―一八○一年)三回、天保年間(一八三一―四五年)三回、磔河原で処刑され、三日間、晒(さら)されたと記録されています。

 その一方、関所近くの裏妙義山沿いに中木道(なかぎどう)と呼ばれた軽井沢に達する間道が設けられ、近在の住民が利用したものと思われます。また、関所を囲む柵に「犬潜(いぬくぐり)」という小さな出入り口が設けられ、横川在住者が坂本宿への出入りが黙認されていました(現物は関所資料館保存)。

 碓氷関所は、明治維新により一八六九年、二百四十余年の歴史の幕を閉じましたが、残された資料や記録によりますと、取り締まりの大変厳しい時代と緩やかな時代が見受けられます。その時代の社会情勢にもあると思いますが、在任した役人により大きく左右されたと推測されます。碓氷関所の取り締まりの実態を研究しますと、今も昔も「法は人なり」ということが強く実感されます。

 私たちの会では二○○二年、『実録関所破りと処刑』を刊行するとともに、江戸時代過酷な取り締まりや掟(おきて)により関所破りの罪により処刑された全国の人たちを慰霊するため、磔河原の地に供養碑を建立し、毎年七月に慰霊祭を開催しています。

 来春五月、新しい裁判員制度が発足します。新制度発足により、現代においても続発している司法や警察関係者の強権による冤罪(えんざい)等の事件が少しでも減少することを磔河原の露と消えた人たちとともに念願しています。






(上毛新聞 2008年6月15日掲載)