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片品村文化財調査委員長 大久保 勝実(片品村鎌田)

【略歴】 片品村などの小学校教諭、中学校長を歴任。教諭時代から尾瀬、武尊山、白根山地域の動植物研究を続けながら、地域の歴史、古文書の調査研究を手掛けている。

山村の明治維新

◎会津藩兵と官軍が交戦

 今から百四十年前の一八六八(慶応四)年五月二十一日(旧暦、以下同じ)、県北部の山村、片品で会津藩兵と官軍の戦いがあった。国内は米国使節ペリーが再来し、尊王攘夷派と佐幕派の争いで騒然とした時代であった。その概略を列記してみる。

 ・六三(文久三)年、京都御所警備の任にあった長州藩が解任される。

 ・同年八月、朝廷政変あり、三条実美等七人の公家、長州へ落ちる(七卿落ち)。

 ・六四(元治元)年、公武合体派分裂。

 ・同年六月、京都・池田屋事件(長州藩士殺害)。

 ・同年七月、長州軍が京都進攻。京都守護職にあった会津藩主、松平容保(かたもり)の軍がこれを防ぎ、長州軍は敗北し帰国(蛤(はまぐり)御門の変)。

 ・朝廷より長州藩追討令が発令(第一次)。

 ・このころ全国で農民の一揆が起きていた。世直し一揆と呼ばれていた。

 ・六六(慶応二)年、将軍徳川家茂死去。

 ・同年十二月、孝明天皇崩御。

 ・六七(同三)年、将軍徳川慶喜が大政奉還し、王政復古の世となる。

 ・六八年、慶喜、大坂を出発、会津、桑名等の幕府軍が薩摩藩討伐を名目に京都へ進攻し、薩長を中心とする新政府軍と衝突(鳥羽伏見の戦い)。幕府軍は大敗、慶喜は江戸に帰る。

 ・同年、慶喜追討令が発せられ、京都より東海道、中山道、北陸道の三軍が進発する。

 この中山道派遣隊が沼田町に入ったのが同年四月六日であった。続いて八日には総督府参謀代理祖式金八郎が館林城主とともに沼田城に入る。十七日、総督府副使豊永貫一郎と原保太郎が吉井藩兵と沼田に到着。間もなく三国峠で会津藩士と交戦し、六日町まで追討した。

 五月七日、官軍本隊が進発。数坂(かっさか)峠を経て追貝に到着したが、梅雨期のため大雨で平川橋が流失、昼夜を通して修理し、九日に片品に本陣を置く。この官軍移動のため、利根郡内で十五歳より六十歳の男子は一戸一名動員された。

 本陣は古仲村大円寺。吉井藩、前橋藩、佐野藩、高崎藩、安中藩、足利藩、伊勢崎藩、沼田藩等の総勢約八百六十人余りに人足等が加わり、村は千人を超える軍兵であふれたといわれている。

 二十一日、先陣として戸倉村に布陣していた足利藩が十二の森に大砲を備えていたが、この街道をそれ、周囲の山々から会津兵の攻撃が始まる。この戦いで隊長今井弁輔が戦死し、やむなく古仲へ退去。戸倉村三十二戸は民家一戸と関所の土蔵を残すのみで焼き払われた。吉井藩士伊藤長三郎も戦死。二人の墓は現在も残されている。この官軍は六月下旬に退陣した。

 農繁期の中、戦争での村民の苦労が察せられる。






(上毛新聞 2008年6月6日掲載)