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渋川市文化財調査委員 今井 登(渋川市北橘町)

【略歴】 群馬青年師範学校(現群馬大教育学部)卒。2001年まで県文化財保護指導員。渋川市文化財調査委員のほか、県埋蔵文化財調査事業団理事。

佐久発電所

◎物語ある心のふるさと

 前橋市から国道17号を北上し、渋川市北橘町から市街地方面へ坂東橋を渡ると、東川岸にトンネルが見える。一九二八(昭和三)年、現在の富山県氷見市から上京し、人との出会いに恵まれ、「努力に追いつく貧乏なし」を座右の銘として、夢の佐久発電所を建設したセメント王の故浅野総一郎氏が、建設資材運搬のために造った専用道路の遺構である。さらに北方へ進むと、ふるさとのシンボルとなっている高さ七五・二メートル、容量五万石のサージタンク(調圧水槽)が春には満開の桜に囲まれ、銀色に輝いている。もとはロケット型であったが、八七(同六十二)年の発電所改良工事で円筒型に変わった。

 JR岩本駅の下方、利根川より取水し、北橘町真壁の調整池へ地下水路で導水(約十二キロメートル)。さらに鉄管で約一キロメートル加速送水し、発電機を回転させ、五万五千キロワットの電力を起こして渋川三社(関東電化工業、大同製鋼=現・大同特殊鋼=、日本カーリット)へ配電した。三八(同十三)年、第二工事で吾妻川より取水し、発電機を増設。合計七万二千キロワットの出力を持つ、水路式水力発電所としては全国有数の発電量を誇っている。さらにクリーンエネルギーとして、安全・安心の生活環境構築の面からも再評価されている。

 発電所は、現在無人化され、全自動操業である。二階の資料室には、八十年の歴史を語り継ぐ資料が収蔵されている。近代化遺産の宝庫ともいえる。

 なぜ「佐久発電所」という名称かと尋ねる人が多い。浅野氏の夫人、作子(雅号・佐久)さんに由来する。上京後、苦労を共にし、「夢の発電所」を建設したが、完成の前年、喜びを味わうことなく他界されたので、業績を残した自分の名でなく「佐久」の名をとったという。“その想(おも)い”は「銀の塔サージタンクに寄り添う満開の桜に姿を変えて今も生き続けているようだ。この地には時代を経ても色褪(あ)せない夫婦愛の物語りがある」と、東京電力月刊誌「クリニケーション」=九三(平成五)年五月号=に記され、昇華されている。ロマンを秘める発電所として地域に愛し続けられる心のふるさとでもある。

 発電所建設にあたっては、多くの課題があったようだ。特に用地買収については、農地を生活基盤とする農民にとって重大問題であった。「将棋盤と駒を持参し、対局しながら土地買収の了解を得た」などのエピソードが残されている。特に真壁調整池については十九戸の移転が余儀なくされたと、高橋才作氏著『湖底のふるさと』に記されている。

 夏の風物詩「湖上花火」が真壁調整池に映る情景は、今でも偉容を誇る東京電力佐久発電所と地域住民との一体感を物語っている。






(上毛新聞 2008年5月29日掲載)