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うすいの歴史を残す会会長 柴崎 恵五(安中市松井田町横川)

【略歴】 蚕糸高(現安中総合学園高)卒。戦後、瀑見(たきみ)保育園設立。1993年から現職。社会福祉法人育誠会理事長。元松井田町議4期。元県保育協議会会長。

「避線」に学ぶ

◎安全への使命感と英知

 私たちの会では、隠れた史跡や名所を結ぶガイドブック『碓氷関所周辺歴史探訪ロード』の発刊を二○○○年春に企画し、それに伴い一年有余をかけ、関所周辺二十余カ所の旧跡古道の修復・整備をしました。

 特に苦労したのは、森林公園のある小根山山麓(さんろく)を通る旧東山道の整備でした。七○一年、大宝律令によって設置された七道の一つで、都から陸奥(むつ)の国府に至る重要な幹線でした。その古道とともに東国の玄関口であった関長原関所跡が今でも往時の風情を留(とど)めています。

 古道修復中、予期せぬ発見がありました。関長原関所跡より西南三百メートルの丸山変電所を見下ろす山林の中に、およそ四十メートルの鉄道線路の軌道跡と切り石により施工された側溝が原状で残置されていたのです。その後の調査でこの跡は碓氷線開通後間もない一八九六年五月、横川―熊ノ平間の平坦(へいたん)線より十五分の一の急勾配(こうばい)となる現在地に敷設された「避線」の一部と判明しました。

 当時、日本でただ一つの「アプト式」は、二本のレールの真ん中に歯形のレールが設置され、機関車の腹に備え付けられた歯車がこれに噛(か)み合って進行する方式です。そのため何らかの原因で列車が逆行して途中で停止の望みがなくなった時に、本線北側の山腹に設けられた延長三百五十メートルの上り勾配の避線にその列車を収容して自然停車させ、脱線転覆を防止させるためだったのです。今から一世紀前に安全対策のため、かかる施設を設置した関係者の英知と安全対策に対する姿勢に驚嘆致しました。

 碓氷線での逆行事故は、一九○一年、一四年と二件起きていますが、横川―熊ノ平間では発生せず、この避線は幸い一度も使用されることなく三六年、民間に払い下げられました。

 碓氷線は、一八九三年の開業から一九九七年の廃線まで一世紀余の長い間、前記二件の事故のほかは、峻険(しゅんけん)な地形をアプト式や粘着運転という特殊な方式で登坂する運輸業務にもかかわらず、管理や労務者のミス・怠慢等による事故が発生しませんでした。創生期における、労使一体の安全対策と現場職員の業務に対する責任感や愛着によるものと思います。

 現今、毎日のように人的ミスによる事故が発生しています。特筆すべきは、国民の安全を守る使命を担っている海上自衛隊「イージス艦」が二月十九日、乗務員の人的ミスにより漁船に衝突した大きな事故です。安全対策に百パーセントはないといわれています。業務に当たる者は今こそ先輩の人命尊重の精神を継続し、安全厳守第一と心がけてもらいたいものです。同時に、先に発見した避線がいつの日か鉄道遺産群の一つとして復元・再生されることを期待しています。






(上毛新聞 2008年5月12日掲載)