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NPO法人足尾鉱毒事件田中正造記念館理事長 広瀬 武(館林市坂下町)

【略歴】 拓殖大卒。1954年から34年間、館林市内の中学校で社会科教師を歴任。渡良瀬川にサケを放す会代表。2006年から現職。著書は『公害の原点を後世に』『渡良瀬川の水運』。

昭和の足尾鉱毒事件

◎今も続く市民の監視

 今から五十年前の一九五八(昭和三十三)年五月三十日、足尾銅山(古河鉱業)の十四ある堆積(たいせき)場の一つで渡良瀬川沿いの最下流に位置する源五郎沢堆積場が決壊した。この決壊によって二千立方メートルという大量の鉱毒が渡良瀬川に流出して、深刻な鉱毒問題が発生した。その時期がちょうど田植え前であったため、待矢場用水の取り入れ口がある本県山田郡毛里田村(現太田市毛里田地区)を最激甚地として、被害を受けた地域は下流の三市(桐生、太田、館林)と三郡(山田、新田、邑楽)の広い範囲に及んだ。まさに、明治以来の足尾鉱毒事件の再燃であり、私はこれを「昭和の足尾鉱毒事件」と呼んでいる。

 被害を受けた三市三郡の農民や行政の代表者ら百五十人は六月十日、足尾へ行って古河鉱業に抗議した。続いて同月二十三日、農民代表と関係市町村長らは桐生市役所に集まって「渡良瀬川鉱毒対策協議会」を開催し、足尾銅山側から出席した鉱業所長らに対して今回の決壊に伴う損害賠償と廃鉱堆積場の工事を完ぺきに行うよう要望した。被害激甚地の毛里田村では七月十日、被害農民の団結によって「毛里田村鉱毒根絶期成同盟会」(以下毛里田同盟会)という、闘う組織がつくられた。そして、その後の被害農民の鉱毒反対運動は、この毛里田同盟会を中心に展開されていった。

 昭和の足尾鉱毒事件の中で、毛里田同盟会の注目すべき活躍は数多くあるが、私が特筆したいと思った実績は、古河鉱業に足尾鉱毒事件の加害責任を認めさせたことである。すなわち、毛里田同盟会は公害紛争処理法の第二十六条の規定に基づいて設置された政府の中央公害審査委員会に、過去の農作物被害の補償として総額百二十億円の支払いを求めてその調停を提訴した。この調停は七三(同四十八)年五月の第一回調停から第十二回調停まで粘り強く続けられ、七四(同四十九)年五月に妥結し成立した。

 その時の調停内容は、「(1)古河鉱業は農作物被害の原因を認め、農民側に補償金十五億五千万円を支払う(2)古河鉱業は足尾鉱業所の全施設から重金属などを渡良瀬川流出させないように施設を改善する(3)古河鉱業と農民側の双方は、渡良瀬川流域における『農用地の土壌の汚染防止等に関する法律』にもとづいて、土地改良事業の早期実現をはかるため関係機関に協力する(4)古河鉱業は将来における足尾事業所施設に起因する公害の発生を予防するため、群馬県、太田市と公害防止協定」を結ぶなど全部で九項目からなっていた(『通史 足尾鉱毒事件』)。

 この中の(3)の土地改良事業は、九九(平成十一)年三月に終了した。が、古河鉱業の鉱毒流出防止について毛里田同盟会の監視活動は、今も続いている。






(上毛新聞 2008年5月2日掲載)