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俳人 鈴木 伸一(前橋市若宮町3丁目)

【略歴】 国学院大卒。1997年より「上毛ジュニア俳壇」選者として多数の青少年俳句に接する。各地の小中高校で俳句授業を行い、青少年が俳句に親しむ環境づくりにも努めている。

人と違っていい

◎子どもは理解力備える

 <俳句は小さな「詩」である。

 自分の思ったことを短い五・七・五の文で伝えればいい。特別じゃなくていい。なんでもいいのだ。そして、それを読んだ人はそれぞれ違うことを考える。それでいいのだ。人と違っていいのだ。何も同じ場所を見ることはない。上を見たり、右を見たりしてもいい。

 しかし、特別は特別でも違う特別がある。他人にメイワクをかければ、それはただの自己中。

 いい違いと悪い違いとがあるのだ。それをよく見わけられる目と耳と心を持つことが大切なのだ。

 俳句で自分の周りが見直せればいいと思う。一度、嫌だと思ったことに向き合ってみよう。そうすれば、きっと新しいものが見えてくる。聞こえてくる。ふとした自分の思いを俳句の形にまとめてみる。

 きっと、すばらしい出会いがあるはずだ。>

     *

 いきなり長文の引用で恐縮だが、これは以前、俳句授業を受けた中三女子生徒の感想。いま、私の手元には千を上回る数の感想文があり、その一編一編から、児童・生徒の「心と言葉」が真っすぐに伝わってくる。その意味で、どれもが私にとってかけがえのないたからものと言えるが、中でもこの女子生徒の一文は、初見以来、深く胸に刻み込まれて忘れることのできないものの一つである。

 前回(三月五日付)でも触れたように、確かに私は授業で「心にゆとりを持つこと」や、「ものの見方や感じ方の違いを互いに認め合うこと」の大切さについて、ことあるごとに言及している。なかんずく、年齢的に不安定な心理になりがちな中学生・高校生への授業で、それを意識的に行っていることも既述の通りであるが、さりとて、私の持てる力では、一人一人に漏れなく伝えきるにも限界がある。しかし、私の経験から申し上げれば、子どもたちはみな、私が伝えたいことをしっかりと受け取ってくれる素晴らしい能力を備えている。このことを確信していなければ、そもそも授業など成立しない、と少なくとも私自身は考えている。

 昨今、若者を中心に「KY」(空気を読めない)という言葉が広がっているのは周知の通りだが、ここでいう「空気を読む」とは、みなと同じであること。そして、そこにあるのは、同じであることをよしとして、ものの見方や感じ方の違いを互いに認め合おうとせず、自分と異質な相手を排除するということへとつながってゆく危うい精神であろう。

 「人と違っていいのだ」という冒頭の女子生徒の言葉を、あらためて噛(か)みしめたいと思う。






(上毛新聞 2008年4月29日掲載)