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◎ルールでなく思いやり 先日、地下鉄に乗ったとき小中学校帰りの子どもたちが、七人がけの座席を○・五人分くらいずつ空けて等間隔で座っていました。席をつめればあと二人は座れる感じですが、誰も席をつめて、あとから乗ってきた人に席を空けようとしません。 別に寝ているわけではなく、マンガ本を読んでいたり、携帯をいじっていたり、友だちと話し込んでいたり…。自分の前に立つ人がいても誰も動きません。乗ってきた人に気づかないほど毎日の通学で疲れているのか、席をつめるのが面倒なのか…。非常に寂しい光景でした。この子どもたちはいつも大人の何を見習って育っているのでしょう。 わが家では電車に乗るとき、子どもたちに「みんなが座れるように席はつめて座ってね」といっています。なぜなら、自分がそうされればありがたいし、お互いが気持ちよくすごせるからです。ルールやマナーとして行うのではなく、もっと体感的で経験的な、体と体、心と心が通じ合う気もちよさから生まれる、自然体な所作としての動きです。 また、以前、歩道で前方から歩いてくる横に広がった集団とすれ違うとき、向こうがよけてくれるかどうかを調べる実験をしたこともあります。一対一の場合は、お互いが間合いを見計らって、余裕をもって、よけ合う場面が多かったです。しかし、相手が集団の場合、向こうが先によけることはほとんどありませんでした。正確な統計は取っていませんが、八割くらいは最終的にぶつかるか、スレスレで私がよけました。 それは大人とか、子どもとか、性別とか、ほとんど関係ありません。相手が二人以上の場合、「自分たちのほうが多くて強いから、弱い相手がよけて当然」という、強い側の集団心理みたいな感覚が無意識に働くからでしょうか、こちらの存在に無頓着なのでした。 しかし本来は、大きいものや集団などの強者が、小さいものや数の少ない弱者を同じ生命として対等な立場で見守る気持ちが大切で、それが思いやりや尊敬であり、人間を人間たらしめている「美意識」といえるのではないでしょうか。でも、それはルールによって規制されるものではなく、毎日の生活の中で体験的なものとして育(はぐく)まれるのだと思います。 もしかしたらこの感覚が失われてきたことが、自然や環境や他者や人間以外の生命を、自分が生存するための道具や資源や食料などの利用対象にしか見られないことにつながっているのかもしれません。自分たちが何によって生かされているのか、日々の暮らしの中で体験的に知っていくことが、遠回りに見えて、環境問題などの多くの問題の解決につながる気がします。 (上毛新聞 2008年4月28日掲載) |