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◎誇れる文化の再構築を 大昔、赤城山の大噴火によって形成されたと伝えられる孤立丘群の一つ「橘山」は、いつ、誰が、どうして名づけたか不明である。 一八八九(明治二十二)年、村制施行にあたり「橘山ノ北方ニ連接スルヲ以テ、北橘村(キタタチバナムラ)ト名ヅク」と『新町村区域取調書』(県立文書館蔵)にある村名由来の山で、一時マスコミの話題となり、村名の音、訓読みで衆目を集めたことがある。非常に気品のある村名、と評価を得ている。 一九八九(平成元)年、村制施行百周年記念に、公共施設をはじめ村内の各所に「ニホンタチバナ」を植栽して、「緑の台地に香るゆかしい橘の風をおこし、自然と人とが一体となって豊かな地域づくりをしよう」の村民憲章の具現化をはかってきた。橘の木の成長とともに地域の活性化への意識の高揚に連動した。 橘の実は、記紀神話によると非時香菓(ときじくのかくのこのみ)といって日本原産のミカン科の一種で、一年中香りを放つ。特に開花時には芳しい香りを漂わせるという。十二代乗仁天皇は田道間守(たじまもり)に常世国(とこよのくに)へ橘を探し求めにいくよう命じたとある。「古代の香りを嗅ぐ文化の原流を求めたのかも知れない」と、『香りを楽しむ』の著者、吉武利文氏は語る。橘山には、橘の木の自生は見当たらない。江戸時代、前橋藩の所領だったころ、山頂の十二支の方向に赤松を植栽し、毎年干支(えと)の方向の枝を正月飾りに使ったという。 通説では、その昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の道すがら小高い丘に上って利根の清流を眼下にし、遥(はる)か上総(かずさ)(千葉)の海でわが身を犠牲にして難を救ってくれた妃(きさき)、弟橘媛(おとたちばなひめ)をしのび「橘媛」の名を連呼したという神話があり、そのため橘山というと伝えられている。 北橘村郷土誌によれば、古記録(上野国伝説雑記)に、橘山は「観応年間(足利時代)上杉民部大輔憲顕橘山に在域云々、憲顕根城ナルヲ以テ家臣皆妻子ヲ橘山ニ差置ク云々」とある、と記されている。 さらに、万葉集の「橘のこばのはなりが思ふなむ心うつくしで我は行かな」の古歌はロマンを秘める。山頂で心をやすめてみたい気持ちになる。村民の誇りとする「心のふるさとの山」である。 最近、ふるさとガイドの会(田中昭良代表)による「橘山伝説」の紙芝居の作製・公演や、商工会青年部による「橘山」案内板設置は極めて好評である。一読一見を乞(こ)う。 北橘中学校校歌の一節に「橘の陰の小径も広き世の大路に続く」とある。生活の行動半径が村から市へ拡大した。市内には、それぞれの地域に先人の築いた誇れる文化が集積している。特色ある地域づくりの再構築に力を合わせよう。 (上毛新聞 2008年4月11日掲載) |