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◎人の営み大きく変える 道路特定財源の問題をめぐり、国会の論議は混迷を極めていますが、各地で生活する人は道路により、その営みが大きく変化するものと思います。 俗に「東入り」と呼ばれる利根郡片品村では、道路で昔から非常な苦労を重ねてきました。豊かな自然に恵まれていましたが、武尊山系の峠越えで山道を歩かなければならなかったのでした。 歴史をたどると、幕政のころ、日光白根山付近は入山禁止でした。山を越えれば日光東照宮領地に接していて、鷹(たか)狩りのための鷹を得る御鷹山と呼ばれ、御止山(おとめやま)ともいわれていたのです。 一八七二(明治五)年九月、当時の副区長(当時は大区小区制で政治が行われ、副区長は近隣の村を統括する役職)である新井伊市郎氏と日光湯海(現湯元)温泉山田屋喜六氏とが話し合い、これまで間道であった山道を切り開き、馬も通行できる道路開発をすることがまとまりました。双方で県の許可を得て、翌年六月に完成、県の検査を経て通行できるようになったのが日光道の始まりです。その後、日光白根山の噴火で損害を受けましたが、その都度、村人の努力で補修してきました。 一九六五(昭和四十)年、金精トンネルが完成、現在の国道120号が開通したため、村内の姿も大きく変わり、種々の天然資源が活用され、観光地として知られるようになりました。 一方、片品村鎌田から国道401号が分かれ、尾瀬ケ原登山口の大清水に至る道は昔から会津街道と呼ばれ、尾瀬を経て福島県桧枝岐(ひのえまた)村に通じていた道で、歴史上にさまざまな伝承、事件が残されています。 古文書等によると、古くは日本史に残る前九年の役、源氏の東北討伐の折、この地を通過しました。また、明治維新の際、官軍と会津軍が片品村戸倉で戦ったこと等、数多くの事跡が残されています。 村を南北に流れる片品川に沿って多くの集落がありますが、昔、片品村は生活圏が南北二つに分かれていました。北部は生活必需品を会津方面から求め、尾瀬ケ原に交換小屋を置き、豊富な良材を加工した木工品等と会津の米・酒・塩等の物々交換をしていた記録があります。不足の時は現金を置いて通用した信用取引で、昔の人の人柄が偲(しの)ばれます。 現在、この「東入り」では国道120号の椎坂(しいさか)峠において交通難所の解消が大きな課題となっています。過日、村議会からも県当局へ請願が出されたと聞きました。峠のトンネル化によって、住民の生命にかかわる救急車がスムーズに運行され、観光客の交通事故が解消されるよう、ぜひ実現させたいものです。 (上毛新聞 2008年4月4日掲載) |